「進化心理学・脳科学のレンズを通して政治・経済・一般常識を読み解く」

希望の党が失望しかもたらさなかった本当の理由


~人気取り政治の限界 ~


◎「排除発言」が全ての原因なのか

 今回の衆院選挙で希望の党が惨敗したことについて、「小池党首の“排除発言”で流れが変わった」とする解説がもっともらしく語られている。この解説は間違ってはいないが本質からかけ離れている。確かに“排除発言”は選挙戦の流れを変えるきっかけとはなったことは事実だろうが、この一連のストーリーをそのように単純化することが出来るのだろうか。

 小池党首の“排除発言”には、政党政治の原則からすれば当然の理屈がある。自らが率いる政党に、主義主張が異なる政治家が合流することはお断りだという至極当たりまえの話が、有権者の反発をかってしまうことになったことには、もっと根深いところに根本的な理由があるはずだ。

 当初、小池党首は東京都知事を辞任して、自らも衆院選挙に立候補するだろうと、希望の党内部のみならず、一部の有権者からも期待されていたにもかかわらず、結局、小池党首が出馬することはなかった。なぜ小池党首は自身の立候補を断念したのか。その理由については様々な憶測があるが、民進党を離れて希望の党から立候補した議員が、選挙後のテレビ番組で語ったところによると、世論調査の数字を見てそれを断念したという。この話の真偽は別にしても、小池党首が世論調査の数字から世の中のムードを読み、その時々の流れに合ったイメージ戦略を操ることに長けていたことは多くの人が知るところだ。

 しかし、今回の衆院選挙は、国家の政権交代も視野に入るような状況で行われたものであり、そのような戦いに挑むはイメージ戦略だけでは不十分だった。有権者の信任を得るために欠かせない“核”になるものがなかった。流れへの感性とイメージといったうわべだけの人気しかもたず、中身に“核”となるものをもたない希望の党が流れとイメージを失うのは簡単だった。


◎政党には“イメージ”だけでなく個性が求められている

 政治家や政党に本来求められているものは個性だ。現状の不備を指摘し、それを改善するのも政治の大切な仕事だろうが、それだけでは不十分だ。政治家は、現状を打破した後に未来を築いていくための道筋を描いて、それを有権者に示していかなければならない。誰にも正確には予測できない未来を、少しばかりの手がかりをもとにして展望することは困難な作業だが、間違うことを恐れずに、自らが実現したい未来図を描き、有権者に語って聞かせることこそが政治家本来の責務だ。

 さすがに政治家一人ひとりがそれぞれに好き勝手な理想を掲げるわけにはいかないから、もし10の政党があれば、そこには実現させたい未来の世の中について、10種類の異なる個性的な風景が描かれることになるだろう。誰も見たことのない未来についての絵を描くのだから当然だが、そこには実に様々で個性的な予想図が掲げられることになるはずだ。

 ところが今回の選挙戦を振り返ってみると、ほとんどの政党が皆横並びになって、他政党への批判や現状への不満、あるいは変化への不安を訴える様子ばかりが目について、どの政党も、現状の先に築きたい世の中のあり方についての具体的な考えを語ってはいなかった。正確さにこだわり、間違えることを恐れていては、未来について語ることなどできるはずもないが、日本は昭和の高度成長期に、失敗せずに真面目にやってさえいれば成功できるという、歴史的に見ても極めて稀な時代を経験してしまったために、一般の日本人のみならず、国家のリーダーたる政治家までもが、不確実な状況を前にして試行錯誤する能力を退化させてしまったのかもしれない。

 しかし、有権者が本当に求めているものは、現状の改善だけではなく、未来についての複数の異なる選択肢だ。それが実現するという保証はないことは誰も承知しているが、人々はいずれかの政党が、それを信じて託すことが出来るような考え方を示してくれることを望んでいる。将来について何を望むかは人それぞれ異なるから、そこには“平均的な国民”が望むことではなく、個性的な未来予想図が並べられていなければならない。独自性のある理想像を掲げることこそが、その政党の独自性を主張するための“核”となる。各政党は、それぞれが掲げた特色ある理想像をベースにして、自らの理想を実現するために闘争していかなければならない。


◎政党政治とは、そもそもは“部族間の闘争”だ

 憲法43条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定めているが、これは、政党政治を原則とする議会制民主主義体制のもとでは事実上実現不可能なきれいごとだ。政党とは、特定の価値観や考え方、利害など、言い分が共通する仲間が協力して、それを政治に反映させるために結成された集団であり、その主張はたいてい他の人たちの言い分とぶつかり合う。

 もちろん、全国民代表の原則があるおかげで、多数を占める勢力も、自分たちの主張を実現するために他の人々の権利を極力踏みにじらないようにとの歯止めはかけられるが、少数派が多数派に比べて不利益を被ることが避けられないのが民主主義の暗黙の了解だ。したがって、ある一つの政党を外から見る人たちにとって、それは、よからぬことを企む輩が徒党を組んでいるようにも感じられることも多い。

 かつて日本でも、保守勢力と革新勢力は、それぞれが産業・経済界、あるいは労働者や庶民を代表して激しく自分たちの主張をぶつけ合った。安保闘争などはその象徴的な出来事であり、争いの激しさや狡猾さは、領土を巡ってぶつかり合う二つの部族の戦争のようでもあった。自民党支持者は経済(GDP)を最優先課題に挙げる部族であり、社会党支持者は労働者の生活向上を目指す部族だった。両者の主張は明確に異なっていたが、それぞれの党の支持者たちは、それぞれの集団の中に共通する正義を掲げ、共通理念のもとに強く団結していた。さらに自分たちとは考え方が異なる集団と競うことによって、一層その結合力を強め、支持者を拡大していった。

 それに比べて、現在の日本の政界地図は、自民党というたった一つの大部族の周りに、いくつかの核家族がうろつき、それぞれに勝手気ままに愚痴をこぼしながら集散離合を繰り返しているような状況だ。


◎人間はチームを結成し他集団との争いで進化を加速

 几帳面で、器用で、正確にものごとを進めることは、日本人が誇る特色の一つだが、それだけでは変化の激しい時代に対応していくことはできない。いまの日本の政治に決定的に足りないものは、不透明な未知の世界に対してもはっきりとした意見を語り、多様な意見をぶつけ合うことによる闘争だ。現状への不満にストレスをため込んでいるにもかかわらず、ことなかれやイメージだけを求めて“平均”にこだわっていては、一歩も前進できない。

 歴史を振り返ってみると人類は、有史以来世界の至る所で部族間闘争を繰り返してきた。先史時代、農業が始まるはるか以前にも、人々が部族同士に分かれて争っていたという証拠がたくさん見つかっている。人類は動物界の中では珍しく、同じ種の中に敵対するチームを作って激しく争う動物だ。

 人類の進化の特徴はまず、家族、部族、軍団、国家など、より大きな集団のメンバーとして協力し合う能力の劇的な向上だ。生き物のなかでも際立って体力に劣る人類が、地球全体を覆い尽くし、支配するようになり、道徳を発達させ、自ら食料を生産し、高度に発達した文明を築くようになった唯一最大の理由は、血縁関係の枠組みを超えて、赤の他人とでも協力関係を結ぶことが出来る能力、すなわち、兄弟でも親戚でもない人々が集まって部族を結成するという、他の生き物ではめったに見ることのできない能力を、人類のみが獲得できたからだ。

 現代に生きる人々の祖先は例外なく、そのチームプレーの能力によって太古の厳しい生存競争を勝ち抜いてきた。仲間との連携が得意でない者は、ネアンデルタール人のように死に絶えてしまい、のちの世に子孫を残すことはできなかった。私たちは現代の自由で気ままな時代に生きているとはいえ、チームへの帰属を本能的に求める“部族主義者”の子孫であって、孤独を好み、勝手気ままに振る舞っていた“個人主義者”の子孫ではないことは間違いない。だから私たちはいまでも、地域社会、チーム、企業をこよなく愛するし、競争を求めて趣味のグループやスポーツのチームを形成しては、合唱コンクールや草野球大会で勝ち負けを競おうとし、さらに、場合によっては、同胞や仲間のために、自らの犠牲をいとわず献身に努めたりもする。


◎強いチームを作るためには強力なシンボルが必要

 ただし、私たちの本能が部族主義的だということは、私たちが3度の飯よりも喧嘩が好きといった類の生き物であるという意味ではない。もちろん集団の内部では個人間の競争も行われるが、そこでは力の強さよりも、協調性や公正さがより重視される。なぜなら、より結束力の強い集団が、他の集団との競争に打ち勝つからだ。

 集団がチームとして協力し合うために、最も大きな効果を発揮するのは象徴となる印(シンボル)だ。太古の昔にはタトゥーなどの習慣が部族のシンボルになったし、その後は集団がそれぞれに共通してもつ倫理観や道徳、そして宗教が結束力を高めるのに大いに役立った。一つのシンボルのもとに集まった人々は、より結束力の強い協力関係のネットワークを築き、より高度な文化をはぐくみ、さらに栄えていくことになった。部族主義は外部の人々に大きな損害を与えることもあるが、一つの旗印のもとに結束することで、私たちは互いに協力し合う能力を高め、集団全体として大きな富を獲得し、さらにその集団に帰属しているということで自らのアイデンティティを規定することができる。

 現代において、人々が結束する場合に最も重要視されるのは、自分たちの集団にとって正義だと信じられている価値観だ。広島東洋カープのファンにとっては、その勝利を信じて部族を形成しているし、ハーレーダビッドソンの愛好家たちは、独特の排気音を信奉して部族を形成している。そこには贔屓の球団の勝利や個性的なサウンドといった絶対的な価値が存在するが、それは万人にとっての価値ではない。

◎旗印を示せない政党は必要ない

 しかし、今回の選挙戦を振り返っても明らかなように、自分たちのシンボルを明確に提示している政党はほとんど存在しなかった。各党の党首は、自分たちの“政策”を訴えようと、合計で地球何周分もの距離を駆け回ってはいたが、いずれの政党が掲げる“政策”も、世論調査によってはじき出され、国民が平均的に求めているとされる課題のうちのいくつかをピックアップして並べているだけのものだった。

 四年に一度、絶対的な独裁政権を選択するというような政治制度であれば、平均値に訴えるという方法も意味がなくはないかもしれないが、世論調査が示す平均値は、世の中全体の流れを読み間違えて極端に現実離れした主張に偏り過ぎないようにするための基準の一つくらいの役にしか立たない。生きた生身の人間が感じることは、それぞれに異なっており、大事だと考えていることは実に多様だ。

 小池党首は世論調査に示される国民意識の平均値やイメージばかりを気にして、そこには表れない国民一人ひとりの独自性や多様性については重要視しなかったようだ。人々が集まることによって最も大きな力を生み出すのは、すべての人が一人残らず結集するときだが、それ以外に複数の集団に分かれて集まる状況では、他の集団との違いを明らかにできる自分たちの独自性を明確に提示し、人々がシンボルとなる理念のもとに集ったときだ。

 自分たちが築いていきたい未来について、具体的に提示することができない政党はもはや必要ない。また国民も、一人ひとりが将来について展望し、自分自身がどのような未来を望んでいるのかということについて考える必要がある。政治と国民はたいてい鶏と卵の関係にあり、どちらが先に変わらなければならないという決まりはないのだから、国民も政党と同様に、自らが信じられる旗印がどのようなものなのかじっくりと考えて行かなければならない。






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