「中東、アジアを中心とした国際情勢の本質を掲載 当サイト編集顧問」

国士舘大学政経学部政治学科講師

良質な石油が眠るアフリカで PKOがする仕事

511日、野田内閣は南スーダン共和国に於ける陸上自衛隊のPKO(国連平和維持活動)を継続するために、2月に派遣された第1次隊と交代する第2次派遣隊の現地派遣を閣議決定。今後は半年毎に部隊を交代し、330人規模で首都ジュバ周辺の道路、橋などのインフラ整備を本格的に行う事になった。これで日本は人的資源を投入して国家建設に協力する態勢が整った。が、問題は自衛隊派遣の前提となる「紛争地帯でない事」の要件が南スーダンに当てはまるのかという事だ。

【油田の上で内線激化】

スーダン共和国から南スーダン(便宜上、本稿ではこの南スーダンに対し、スーダン共和国を北スーダンと示す)が独立したのは20017月、現在のところ世界で最も若い独立国である。しかし、独立に至るまでには22年間に亘る内戦とそれに伴う死者200万人ともいわれる苛烈且つ凄惨な歴史が在った事の詳細は日本人にはあまり知られていない。

独立後も戦火は尾を引き、今年3月、北スーダン、南コルドファン地区のヌバ山地が攻撃され、多数の死傷者と難民が出ている。北スーダン政府は南スーダン政府が支援する反政府軍事組織「スーダン人民解放軍」のアジトを攻撃したと主張。現在、南スーダンと北スーダンの間に紛争が残っているのは、主に油田地帯が広がるアベイ、南コルドファン、青ナイルの3地域。これだけでも、この若い独立国が不安定な状態であるのは十分に分かるが、南スーダン国内でも各地で部族間の衝突が散発し、更には隣接諸国との争いが不安定要因となっている。南スーダンを取り囲んでいるのがアフリカの中でも最も危ない地域とされる諸国だ。海賊で有名なソマリア、オガデン地方の独立運動を抱えるエチオピア、凄惨な殺し合いが続くスーダン・チャド国境、反政府ゲリラが跋扈するウガンダ北部、19608月の独立以来政治的な混乱から抜け出せないでいる中央アフリカ等がそれに当たる。
以上一瞥するだけでも南スーダンに関する紛争は多重構造であり、その要因に付いてはそれぞれ歴史的な経緯がある。が、対立の核心は1970年代に発見された膨大な量の石油資源である。この石油発見が住民たちに災厄をもたらしたと言っても過言ではない。

地図:外務省 海外安全ノームページより引用
http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcmap.asp?id=301&infocode=2012T057&filetype=1&fileno=1

【スーダンと大国のエネルギー戦略】

なぜ石油発見が災厄となり、凄惨な対立構造を生み出したのか、そこにはイギリスの植民地としての長い歴史と植民地から独立後の政治的不安定、更にはオサマ・ビンラディン等のテロリストが深く絡まった石油を巡るアメリカと中国の利権争いの結果と言える。この事を吟味するには日本人にはほとんど馴染みの無いこの国と地域の歴史、大国のエネルギー戦略等を採りあげて行く必要がある。

スーダンの歴史はアフリカでは珍しく、古代にさかのぼる。紀元前にはエジプトもその支配下に置き、エジプトのファラオはスーダンから来たとも言われている。事実、スーダン各地にはピラミッド遺跡も多数存在しているのだ。近代になるとオスマントルコ帝国配下のエジプトに支配され、その後、エジプトを植民地にしたイギリスの支配下に組み込まれた。当時のスーダンはそれに反抗し、一時は大英帝国軍を打ち破り、独立政府を樹立。これを押さえこもうとするイギリス軍の侵攻が拡大し、アフリカ大陸を縦断するまでに至ったのである。この様にして、言わばスーダンはヨーロッパのアフリカ支配の歴史的起点となったとも言えるのだ。

【アメリカと中国がスーダンで争っているもの】

以降、スーダンは他のアフリカ諸国同様に長い植民地時代を送る事となる。この期間、主として北部にはイスラム教徒のアラブ人、南部にはキリスト教徒の黒人が住み、「分断しつつ統治する」イギリス植民地政策の基本通りに北部中心の支配構造が出来上がった。これがスーダン国民の間に南北の根深い対立を生む要因の一つとなったのである。

スーダン共和国は1956年に独立するが、南北の対立が尾を引いて2次に亘る内戦が起き、そこに、1970年代に発見された石油の利権争いが紛争の激しさに拍車をかける結果となった。これに決着がついたのが2005年の包括和平合意である。その合意に基づいて2011年に独立の是非を問う住民投票が行われ、同年7月の独立に結び付いた。が、この合意は不完全なもので、国境線の画定や石油利権の細部に到る合意困難な点は先送りにしていた。この事が現在の紛争に繋がって来る。

南スーダンの独立を後押ししたのはアメリカだ。1989年、スーダンにイスラム強硬派のバシール政権が誕生し、反米・反西欧的態度を強めたのをきっかけに、オサマ・ビンラディンやイギリスの作家、フレデリック・フォーサイスの小説「ジャッカルの日」になぞらえてカルロス・ザ・ジャッカルと呼ばれた稀代のテロリスト、イリッチ・ラミレス・サントス等が住み着いた。これらの事から、アメリカは1993年にスーダンをテロ支援国家に指定。それに加えて、1998年にはケニヤとタンザニアのアメリカ大使館が相次いで爆破された。その直後、アメリカが報復としてタリバンが支配するアフガニスタンとスーダンをトマホークミサイルで爆撃するという事態に発展。これらの事から、アメリカやヨーロッパの企業がスーダンから撤退する事となったのだ。

この空白を狙って進出してきたのが中国である。中国のアフリカ攻勢は1995年にスーダン油田の権益を獲得した事から始まった。アメリカとしても、このままでは既得権益であった石油利権も中国に脅かされるのを黙って見過ごすわけにはいかなくなったのだ。そこで出て来たのがスーダンにある油田の大半が集中している南スーダンを分離・独立させるという戦略だ。南スーダンの誕生には中国とアメリカのスーダン油田を巡る利権争いが大きく影を落としている。次回は米中両国の石油を巡る具体的な行動に焦点を当てて吟味して見よう。


<<バックナンバー>>
2012/05/01 北朝鮮のミサイル発射に潜む「中東」の核事情 



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