「中東、アジアを中心とした国際情勢の本質を掲載 当サイト編集顧問」

国士舘大学政経学部政治学科講師

ミャンマー•ビジネス参入の為の“重要事項”

 7月末から8月にかけて久しぶりにタイの首都バンコクに滞在した。

 当地では旧知の間柄である学者、ジャーナリスト、経済人達と旧交を温めると同時に、様々な事柄に付いて情報交換する事が目的であった。主として東南アジアを中心とする国際関係を研究テーマにしている私にとって、現地のナマの空気と知識を得る貴重な機会でもある。会食等を共にしながらリラックスした雰囲気の意見交換の場であったが、時に触れて話題になったのが、タイの隣国ミャンマーの変貌ぶりであった。

【資源大国ビルマの現状。】

 長い間、軍事政権支配下であったミャンマーの政治が、一気に自由化されて急速に外資を呼び込む体制を整えつつある。このままではタイに集まっていた外資もミャンマーに流れ込むのではないかとの懸念と、ミャンマー政府の急速な中国離れに驚いている―というのが彼らの見方であった。

 中国の存在は、タイに限らず東南アジア諸国の政治的、経済的な懸案事項だ。スプラトリー諸島の領有権争いと中国経済の発展を背景にして、中国との外交バランスをどう取ればいいのかが、当面の課題となっているからである。

【中国と手を切る組閣】

 事実、ミャンマーのテインセン大統領の動きは活発で、その方向性は急速な民主化と同時に、中国離れを志向しているのが特徴的である。テインセン大統領はまず、8月27日に昨年3月の民政移管後、初の大規模な内閣改造を断行。その内容は閣僚9人を配置換えし、副大臣15人を民間の企業関係者や官僚を中心に起用したのである。これで政治と経済改革を一段と推進する態勢を取った。タイのミャンマー・ウォッチャーによると軍事政権時代の既得権益を守ろうとする守旧派とされるチョーサン情報相が他のポストに移り、後任にアウンチー労働相を据えた。アウンチー氏は国民民主連盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー女史と信頼関係を築いている人物だ。更には通信・郵便・電信省などの副大臣には企業人を充て、ソーテイン工業相を中心とする大統領側近を大統領府担当の閣僚に据えたのである。これらの内閣改造人事は明らかに改革を重視した布陣と見られるのだ。

 これに先立つ7月には、守旧派の筆頭と目されていたテインアウンミンウー副大統領は健康上の理由で退任。軍政時代の利権で成長した政商グループもほぼ大統領の改革路線に同調姿勢を示すなど、テインセン政権は着々と守旧派の勢いを削いできた。これら一連の動きの中で注目すべきは、8月28日に明らかとなったゾーミン第一電力省とキンマウンミン建設相の辞任である。

 ゾ―ミン第一電力相は軍政の最高権力者であったタンシュエ国家平和発展評議会(SPDC)元議長の側近で、守旧派の中核にいた人物である。彼は軍政時代に計画され、北部で建設が進められていた水力発電用のミッソンダムの推進派だった。

【ダム凍結宣言の思惑】

 ミッソンダムは、中国国営企業が約36億ドルを投資して建設するダムで、2009年に始まったイラワジ川総合開発の象徴的なプロジェクトの一つである。当時、軍事政権が結んだダム建設の契約は中国優位のものであった。契約によると、ダム完成後50年に亘って中国がこれを運用し、その発電量の90%を中国に送電するという。これではミャンマー国民に実質的な利益はほとんどないと言えるだろう。にもかかわらず、開発に伴い地域内に住む少数民族カチン族の約50村が水没、強制移住者が1万人にも及ぶ。これらのイラワジ川の開発に反対する少数民族と政府軍の戦闘が続き、死傷者が相当数出るなど、アフリカでの強引な石油開発と同じ事態が中国絡みで起きていたのである(当連載・スーダンの項参照)。

 アフリカでの例と同じくミャンマー国内での中国資本の進出は凄まじく、雲南からミャンマーの古都マンダレーに通じる高速道路計画に伴い、マンダレー市内には華人資本の商店や飲食店が開き、市街のあちこちに漢字の看板が林立するという事態が起きている。この様な状態でテインセン大統領がミッソンダムの凍結を宣言し、ゾ―ミン第一電力相が辞任する事は、政権そのものが中国の経済支配から離れて、独自路線を採ることを内外に宣言したと受け止められるのだ。

【学生達が武装して得た“未来”】

1990年秋。

当時、主として紛争地帯を取材するジャーナリストであった私とタイ人パートナーは、タイとの国境地帯に広がるミャンマー・コートレイ州に入った。軍事弾圧を受けてヤンゴンから逃げて来た学生達を取材するためである。1990年5月23日の総選挙でアウンサンスーチー女史率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した事に反発した軍事政権が、民政移行を拒み、同時にNLD幹部とその支持者達に猛烈な弾圧を加えたのである。NLDは政権を取った後、国軍を裁判にかけると示唆していたのが弾圧の原因の一つとされている。この直後から、軍の手による政治改革がおこなわれるようになった。その象徴が国名の変更である。

1989年までは、ビルマ連邦と呼称されていた国が、ミャンマーとなり、首都名までラングーンからヤンゴン変えられてしまい、当のビルマ人も自分たちをどうアイデンティケイションしていけばよいのか戸惑う程混乱していた。

 当時、コートレイはカレン族の支配下にあり、カレン族はビルマからの分離独立を目指し、国軍と闘っていた。首都を銃で追われた学生達はジャングルに逃げ込み、延々タイとの国境地帯まで徒歩で辿りついて反政府勢力の庇護を受けた。この地で会った学生達は、女子学生をも含めて約200名。ラングーン大学を始め、医科大学、農業大学などで学び、平和な世の中であれば、エリートとしてビルマ社会に貢献できた人々である。

彼らは軍事政権の苛烈な暴力に対し、力で持って対抗し、軍事政権を打倒した後、米国の様な民主主義政治体制の樹立を熱望していた。

「ビルマには天然資源があり、石油やガスも豊富にある。にもかかわらず、貧しいのは軍事政権が独占しているからだ」

と言い、軍事政権さえ倒せばビルマは豊かな国になると主張する。彼らはカレン民族解放戦線の将校たちからゲリラ戦術を学び、ジャングル戦の訓練を受け、本気で軍事政権に戦いを挑もうとしていたのである。

私たちは、コートレイで開かれたビルマ全土の反政府学生組織•全ビルマ学生連盟結成式と、議長選挙の様子を独占取材した。しかし、彼らのその熱気と情熱の裏には、死の気配が漂い、物悲しい緊迫感が満ちていた。事実、私が滞在している間、出撃した学生部隊がビルマ軍との戦闘で全滅したという報告を聞いた。

【近代化に向け軍事化したワケ】

 アジアに限らず、近代化の過程では「開発独裁」と言われる政治体制を通過する。権力を一点に集中し、暴力をも含む強権を発動して強引な開発を行い、民族資本を育成しつつ、近代化の道に進んでいく。フィリピンのマルコス大統領、インドネシアのスカルノ大統領とそれに続くスハルノ大統領などの政権がその代表的なものと言える。この開発独裁体制の中心的な役割を果たすのが軍である。

 生産力が乏しく、配給経済で外的との戦いが日常という国家は軍の役割が大きい。この様な国では生産・輸送・通信・インフラ整備など経済の骨格を担うのが軍である。国民の最大の就職先が軍であり、人材も軍に集中する。軍人は暴力装置の担い手であるだけでなく、官僚であり政治家でもある。情報が集中するのも軍であるし、閉ざされた社会の中で世界情勢に通じた人材も軍にいる。そして、国家の組織の中で最も近代化され、効率の良い組織が軍である。

 1990年代のミャンマーはこう言った開発独裁による発展過程の真只中に在ったと言えよう。アウンサンスーチー氏はこの様な時代の中で軍事政権に真正面から挑み、コートレイのジャングルの中で私と会った学生達も、彼女と思想と行動を一にした結果、軍と力の対決を試みていたのだ。軍の力による支配は2000年を超える時点まで続き、その間、国際的孤立が深まった。

【中国が作りあげた安定】 

アメリカは1990年の軍事クーデターに抗議し、経済制裁を加えると共に、大使館を閉鎖。EU諸国や日本もこれに追随し経済制裁や援助額の削減、現地生産企業の撤退等が実施された。更には1997年、ミャンマーのASEAN加盟にアメリカとEUが猛反対。最終的にはASEANには加盟できたが、ASEAN諸国はアメリカとEUに自由貿易協定(FTA)交渉入りを事実上拒否されると言う、ASEAN全体を巻き込んだ経済的締め付けが強行されたのである。

 この時、国際社会で孤立したミャンマーを支えたのが中国だった。中国はミャンマーに対して内政不干渉主義(スーダンの項参照)の下で援助を積極的に行い、生活用品等、物資を供給し続けた。そして、中国に国境を接するミャンマーがインド洋に抜ける戦略的要衝である事から、雲南省からイラワジ川に沿ってパイプライン施設を持ちかけ、軍事政権にそれを認めさせたのである。

パイプラインは中東からの原油がマラッカ海峡を通過することなしに中国本土に運び込む事が出来る戦略的にも重要な施設である。これをきっかけに建設労働者がミャンマーの地方都市に入り込み、労務者を客とする華人資本が次々と進出する。これらの中国資本が慎ましやかなミャンマー社会で回転する事で、低成長ながらも安定した経済状況が生まれたのである。

【信仰に負けた暴力】

私が再度ミャンマーに入ったのは1999年。ヤンゴン、マンダレー、パガンの各地を回った。貧しいながらも社会は安定しており、経済的にも少しずつではあるが、豊かになっていた。庶民のほとんどは自宅に幽閉されているアウンサンスーチー氏の事は口にせず。また話したとしても「彼女が唱える民主主義よりも、まず社会の安定と経済成長が必要だ」という声が多かった。

事実、その当時ヤンゴン市内には日本の中古車が走り回り、ラッシュ時には交通渋滞が起き、交通警察が出動する事態が常態化していたのである。

 軍事政権に変化が起きたのは2003年の事だ。当時のキンニュン首相が民主化ロードマップを作り、自宅幽閉されていたアウンサンスーチー氏との和解の道を探る行為に出ようとした。が、それもつかの間。2004年、保守派の巻き返し策が功を奏し、キンニュン首相の身柄が拘束され、失脚。後を継いだソーウイン首相は軍の武闘派を背景に民主派への弾圧を強め、更に国際的な孤立を深めた。

 その結果、経済は停滞し、軍の経済的締め付けが一層強まったのである。庶民の経済と生活に対する不満が高まり、学生や一般人のデモが頻発するようになった。それに連動して、2007年に仏教僧の反政府デモが起きた。このデモを取材中に日本人カメラマンの長井健司氏が政府側の鎮圧部隊に銃殺される事件が起き、日本人にミャンマーの現状がつぶさに伝えられる結果となった。

 ミャンマー国内では、僧侶の焼身自殺が連続して起き、僧侶が容赦なく射殺された。この事で、長い歴史と伝統の中で培われた仏教的社会規範を暴力で破壊して行く軍の行動に対する強烈な批判が一般庶民の間で生まれる事となったのである。この頃から、軍事政権内部で変化が起こり始めた。

次号

【日本のビルマ経済戦略への提言】へ続く


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