「中東、アジアを中心とした国際情勢の本質を掲載 当サイト編集顧問」

国士舘大学政経学部政治学科講師

タイの反政府運動の実態、第2話

タイ国近代化と政治プロセスにおける「国王」の存在



◎アメリカ生まれのプミポン現国王

先月号では現在進行中のタイ国の深刻な政治対決の裏には「タクシン的な政治」に反抗する勢力と、それを支持する勢力との争いがあることを挙げた。この場合、「タクシン的政治」とは一体何かを明らかにしておく必要があるだろう。それは戦後タイ国の政治過程における「国王」の存在とタイ国近代化過程における二人の政治家の存在に深く関わっている。以下、これについて順次述べて行く。この過程で政治対決の深層が見えてくるからである。まず、現国王の存在はタイ国家の基本構造と国民にとっていかなる意味を持つかを吟味していく。 

第二次大戦後、中国の共産化と朝鮮戦争、更には中国をバックとしたインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)の共産化という情勢に呼応する形で、タイ国は反共・親米国家としての国内整備を急速に進めていった。その中でも特筆すべきは、タイ王室のアメリカナイズである。タイ王室は1932年の人民党によるクーデター(これについては後に詳述)で政治的実権を奪われて以来、単なる文化的象徴としての役割しか与えられていなかった。しかし、第二次大戦後、タイ国の政治姿勢はアメリカと行動を一にすることで国家の独立を図るところとなった。政治的には、共産党の非合法化を始めとする一連の反共政策が強行されていったが、国民に対する文化政策として王室のあり方が見直される事となったのである。

王室改革のきっかけとなったのが、1946年6月9日、現国王の兄アーナンダマヒドン国王がピストル暴発による怪死事件後に19歳のプミポン殿下が国王として即位したことである。この事が後にタイ国側の対アメリカ外交の重要なカードとなった。

その第一が彼の出生地にあった。即ち、プミポン国王は1927年12月5日アメリカ・マサチューセッツ州ケンブリッジでハーバード・メディカル・スクールに留学中のマヒドン王子( 1929年に死去)の次男として誕生した。従って、王になる可能性はほとんど無かった。が、歴代タイ王室では初めてアメリカの地で生まれた王族となったことは、当時の彼の唯一の特徴であった。

1932年のクーデター後、プミポン殿下は母の強い希望で兄と共にスイスに留学。1934年、クーデターの余波でプラチャーティポック王が退位して、兄である8歳のアーナンダマヒドン殿下がスイス滞在のまま王位に付いた。


◎現シリキット王妃との婚姻でアメリカナイズ受け入れの素地が完成

プミポン王が還暦を迎えた1987年にタイで発行された英文冊子「Our Great King」によると、プミポン殿下はスイス留学中には政治とは無関係な工学を学んでいた。その間、ジャズを演奏したり、カー・レーサーとしてレースに参加するなど、いかにも若者らしい学生生活を楽しんでいたのである。1948年、カー・レースでプミポン殿下が乗ったフィアット・トピリノが事故を起こし、彼は、右眼摘出という重傷を負った。その時、連日彼のもとに通って介抱したのが駐フランス・タイ大使の娘であった現シリキット王妃である。

先の冊子によると「やがて2人は恋に落ち、国王は自らシリキット嬢の為にジャズの楽曲を作曲し、プレゼントして思いのたけを告白した。その時の曲が「キャンドル・ライト・ブルース」と「フォーリング・レイン」であった。それと同時に婚約指輪として父のマヒドン王子が母と婚約する時に贈った物をプレゼントした事になっている。プミポン殿下がシリキット嬢に作曲して贈ったとされるジャズの楽曲は、現在も王妃の誕生日などにタイ国内で演奏されているが、その中の一つである「The Candlelight Blues」の歌詞は次のようなものである。

The candlelight is shining low

My only love, I’m missing you so

I know I’ve lost but still dream of you

I’ll hope and dream till all my

Dreams come true

Just by the candlelight

You used to hold me tight.

 国王はスイスからシリキット嬢を王妃として連れ帰るが、その前後から2人の結婚について上記のようなエピソードが国民の間に流布されていく。このストーリーの真偽は判然としないが、上記の歌詞をも含めて、この、いかにも甘いハリウッド映画を彷彿とさせる物語は、国民の間で圧倒的に支持され、タイ国民がアメリカ風の人間観を心地よいものと受け容れる素地を作り上げていったと言えよう。


◎アメリカ文化の体現を演出する国王の政治利用

 国王は即位後、アメリカ流の生活態度を率先して国民に示し、いち早く民主主義的な開かれた王室を国民に見せる事を積極的に進めていく。そのアメリカナイズの象徴的な事柄は、次のエピソードによくあらわれている。国王は1960年にベニー・グッドマンジャズオーケストラと競演、先に挙げた冊子によると、王のジャズ演奏家としての才能にいたく感心したグッドマンが「現在陛下はタイ国の国王だが、もし失業するような事があったなら私のバンドのメンバーとして雇いたい」と後にもらしたと言う。更に国王は王宮内にラジオのスタジオを作り、私設のジャズ・オーケストラを組織してほぼ29年間にわたって国王自らジャズを演奏する30分番組の放送を継続している。

 日本の皇室も戦後、小泉信三の演出により、皇太子(現天皇)にアメリカ人家庭教師を雇い、テニスを媒介とした恋愛物語から皇太子は婚約に至り、しかも、皇室始まって以来初めて平民から(キリスト教を基本とする教育を受けた)美智子妃を迎えるというアメリカナイズされた「開かれた皇室」を演出した。それによってアメリカ人の好意を得、日本人大衆にアメリカ的民主主義をアピールするという政治的効果をあげたのである。タイ国もプミポン国王のアメリカ生まれという事実、カー・レースでの事故にまつわる、まるでハリウッド映画のような恋愛物語、さらにはアメリカ文化そのものであるジャズを、国王を通じてタイ国民にアピールすると同時にタイ国が国を挙げてアメリカ文化を慕っている事をアメリカ国民に提示するという、実に手の込んだ国王の政治的利用を図ったのである。

元々タイ国民にはヨーロッパの植民地主義から独立を維持した事と、長期にわたる王制の経験があり、それによって、君主制及び、権威に対する尊敬の念がタイ人の精神の主要部分を形成していた事から、外国のイデオロギーに対する免疫があり、マルクス主義がインテリの間でさえごく僅かにしか根付かなかったのである。このようなタイ国の精神風土の中で上記のような国王の行いは、国民に対する影響力の面で見れば計り知れないものがある。

 事実、王室を近代化(アメリカ化)したプミポン国王に対してタイ国内では「プミポン国王は西洋からルネサンス王と呼ばれており、その呼称は誰にも否定できず、タイ人にとっては単にルネッサンス王という文化的言語をはるかに超えた存在である。プミポン国王は国家意志形成の指導者であり、タイ国文化の擁護者である」との評価が定着しており、国内にアメリカ的な文化を定着させる事で国民の意識を統合し、アメリカとの関係強化に果たした国王の役割は大であった。プミポン国王自身もこの事は自覚しており、ジャズの作曲、演奏のほか、カー・レース、ヨット競技、カメラ、絵画、などに取り組み、いかにも、若々しく活動的なスポーツや文化の浸透に努力してきたのである。


◎反共を背景に「タイ式民主主義」定着と国王の社会的役割復活

1957年9月16日、サリット将軍のクーデターが成功し、政権を掌握した。サリットはもともと西欧的な民主主義には関心がなく、その主張は「タイ式民主主義」と呼ばれるもので、タイ古来の民族、仏教、王政を基本原理とする家父長制など、伝統社会の価値観に基づいた国家観、政治観を基礎としたものである。その上で、国民統合の象徴として、国王の存在を重要視し、活動的な王の姿を広く国民に知らしめる事を強調したものであった。

タイの伝統的価値観からすれば、国家は家とされ、国王=父(家長)は国民=子の相談相手であり、子同士の争いを調停する裁判官であり、他の家=外国との戦争の際の総指揮官である。つまり、国情(仏教的価値観に基礎を置いたタイ国独自の歴史観と伝統に根差す特殊事情)に相ふさわしい民主主義制度を構築する事に当たり、国王とタイ民族は分離できない。建国以来、国王は民族の象徴であり、国民の尊敬の的である。従って、民主主義制度を導入するとしても単純な西欧式民主主義である必要はなく、国家制度を変更する必要が出てきても国王を国家元首とする制度に何ら変更を加える必要はない…というのがタイ国民に一貫した基本的思潮でもあった。

 サリットの国家再編の基礎には共産主義の活発な活動にタイ国が浸透されつつあるとの危機認識があった。それは、1953年春、北ベトナムのベトミン軍がラオスに初めて侵入し、自由ラオス政府(その後1955年には自由ラオス政府主導によるタイの少数民族メオ族を中心としたタイ・メオ自治政府をタイ東北部に設立する事を公表)と呼ばれる組織を設立した事でなお一層強まった。タイが恐れたのはこの事が、文化的にも民族的にもラオスに近いタイ東北地域の住民達に共産主義をアピールする前奏曲になる事であった。それに加えてホーチミンに忠誠心を持つ約5万人のベトナム難民がメコン川に沿ってこれら危険地帯に存在する事も、タイ国政府を一層憂慮させる事となったのである。政府はタイ全土に向けて国家的危機を宣言し、1953年から1954年にかけて国境に近接する地域に駐屯している陸軍と警察軍部隊を増強した。

サリットは共産主義の脅威に対抗するためには貧困をなくし、国民生活の安寧を図る事が必要だとし、経済開発に重点をおいた。プミポン国王とサリットは地方開発の推進と王権を否定する共産主義に対抗する事では共通の認識を持っていた。事実、先に挙げた「Our Great King」という国王の経歴と業績を記録した資料によると、1972年に国王は次のような発言をしている。

「わが国民が共産主義者に抵抗しようとしているのはよく認識している。村を訪問し、彼らと一緒に歩けばそれがよく分かるのだ。妻と私がこのような人々を支援する最良の方法は彼らの所を絶え間なく訪問し、我々が姿を見せて彼らを安心させる事だ」

 サリット政権の下で国王の地方巡幸、春耕節儀式(その年の豊作を占う儀式)など、数々の式典への臨席、国立大学などでの国王による卒業証書授与などが制度化され、チャリティー、福祉活動への参加など、1932年革命(後述)以来軽視されてきた国王の社会的役割が復活した。国王とシリキット王妃は身の危険をかえりみず、武装した共産主義者の侵入が伝えられる東北部のメコン川沿いの貧しい農村や、北部山岳地帯の少数民族の村々を積極的に訪ね、農民達の輪の中に入っていった。そこでは農民の要求を直接聞き、自らのファンデーションで資金を出し、農地改良や、インフラ整備、化学肥料の普及などに努めたのである。

その結果、村々では国王の写真を飾る事が習慣づけられ、タイの伝統的な価値観である父権的な存在を具体的に見せ付ける事となった。更には仏教界も、国王の活動をフォローするように辺境の土地に寺を建立。そこには「開発僧」と呼ばれる若い僧侶が派遣され、仏教思想を広めると共に、国王の徳を説いて聞かせるという事が盛んに行われるようになった。

これら、開発僧が滞在する寺は新しい農業技術や衛生観念の普及など、学校の機能も含めた一種の文化センターの役割を果たしたのである。ここでは、貧しい子供を集めて集団生活をさせ、勉強をさせる制度もあり、国王を始めとした各層からの寄付金を基に、大学に進学させる奨学事業でも実績を上げている。現在、ここで育ち、高等教育を受けた子供達が社会の中堅層として活躍している例は多いのだ。

仏教の擁護者としての国王は以上の点でも国民の中に浸透し、政治に全く無関心の山岳少数民族や貧困農民層が国王を通じて、タイ人としてのアイデンティティーを確認する事となる。従って、国王はタイ民族同一化の象徴でもあり、それだけに、政治過程や権力構造にも大きなかかわりを持つようになったのである。その後、歴代政府は国王の開発プロジェクトに特別な配慮を行い、それをサポートする専門部署を設置し、国民統合の象徴しての国王の役割と存在を具体的に国民に示す事になった。 


◎国王が調停役として積極的に政治的関与、

タイ国では1970年代から中産階級が出現し始め、既存の軍・官僚複合体の政治的地位の低下が見られるようになった。それに伴って経済界を基盤とする新党結成など、新政治勢力が台頭し、権力構造の変動が起きた。その事が従来とは違った形で国王の政治関与を促す事となったのである。それは各政治勢力間の争いの調停役であり、政権担当者を選択するという役割であった。その事が具体的な形で現れたのが、1992年5月に起きたクーデターとそれの後始末に対する国王の振る舞いである。

1992年3月に実施された下院総選挙では、どの政党も過半数が取れなかった。その結果、保守政党が連立して過半数を取り、政党間の勢力バランスを図るために、現役の陸軍司令官であるスチンダークラープユーン大将を首相に迎えた。これに対して、首相は直接選挙で選出された下院議員であるべきだとして、憲法改正を主張する元バンコク市長チャムローンシームアンを指導者とする反対運動が起きた。5月17日、王宮前広場での集会は10万人の規模に膨れ上がり、タイ全土の各地でも反対集会が催された。これに対して非常事態宣言が出され、18日未明には王宮前集会に軍が投入され、流血の惨事となった。20日午前、スチンダー首相は死者40名、負傷者600名と発表(タイの英字紙バンコクポストは死者100名、負傷者500名と報道)するほどの大惨事となった。

この事態に対して王室側は20日早朝から事態収拾に向けた本格的な呼びかけを始めたのである。20日午前6時、テレビを通じてフランスを訪問中のシリントン王女が記者会見の形式で、人命尊重が最も重要であり、暴力行為をやめるようにと呼びかけた。同日夕刻には韓国を訪問中のワチラロンコン皇太子が感情的、過激な行動を慎むようにと呼びかけた。そして、20日午後9時、プミポン国王がスチンダー首相とチャムロン氏を拝謁させ、協調し合い、相談し合って問題解決に当たるように望むと述べ、その模様は同日深夜テレビ・ラジオで特別番組として放送された。この結果、両者の争いは解決し、憲法改正とスチンダー首相の辞職が発表されたのである。

このようなプミポン国王と王族の政治関与は王の積極的な活動の結果として現れたものと言えるだろう。即ち、プミポン国王の事件関与は「国王を元首とする民主主義」を具体的に表現したものであった。国王を元首とする民主主義は憲法に明文化され、「タイ式民主主義」の展開の中で醸成され確立した制度として存在している。憲法では国王が内閣、議会及び裁判所を通じて三権を行使すると規定しているが、1992年の事件のように軍部と反政府運動が対立して機能していないと判断された時、国王は内閣を通じる事なく、国王の判断によって直接的な政治関与を行い得る事を証明した事となる。


◎タクシン氏の政治的手法で普遍的な国王の立場に変化

先月号で述べたタクシン首相の辞任劇は上記のケースをほぼシュミレートしたものであった。が、今回問題とされたのは、タクシン首相が主として農民層を対象としたバラマキ政策を行った事であり、貧民を慰撫するという国父としての国王の役割に首相が国家予算を使って割って入った事。更にはこの政策を自身の選挙に利用しようとしたことである。この事はこれまでタイ国を構成してきた国家の基幹を揺るがすものとして捉える勢力が、タクシン追い落としに全精力を傾注する結果となった。これが現在進行している激烈な政治対決の根幹部分となる一つの側面である。

次回は1932年革命を成功させ、タイ国の近代政治を創り出した二人の政治家を採り上げ、「タクシン的政治」のルーツを示した上で現在の政治対立の根幹をなす、もう一つの側面を吟味して行く事にする。

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