「中東、アジアを中心とした国際情勢の本質を掲載 当サイト編集顧問」

国士舘大学政経学部政治学科講師

タイ反政府運動の実態、第3話 

タイ近代化過程で代表的且つ対照的な二人の政治家、軍人出身のピブン氏と官僚出身のプリディー氏  



◎今も混迷を続けるタイの政治情勢をひも解くには?


  2014年3月21日、タイ国の憲法裁判所が2月の総選挙を無効とする判決を下した。これはタイ国憲法108条の「選挙は全国同一日に行われる」との文言を根拠としたものである。先の選挙では反タクシン派のデモ隊が選挙当日、投票所に押しかけて投票を妨害。その結果28選挙区で投票ができなくなったのにもかかわらず選挙が実施されたのは違憲だとした判決だ。

 これを受けて反政府デモ指導者達はインラック現政権が退陣しなければ再選挙を受入れられない-との立場を鮮明にし、やり直し選挙が行われる場合、野党民主党は再び選挙ボイコット戦略をとる構えを見せる。これに対して親政府組織・反独裁民主戦線は判決に反発。行動を激化させると予想されている。事実、3月21日早朝、憲法裁判事自宅付近に砲弾が撃ち込まれるなど、不穏な事件が相次いでいるのだ。

 外部から見れば、このような解決の見通しの立たない政治対決がかくも長期にわたり、観光業をはじめ、莫大な経済的損失がなされている現状を理解するのは困難であろう。が、この鋭い対立は第一次世界大戦直後、ドイツのカイゼル、オーストリアのハプスブルグ、ロシアのロマノフ各王朝が消滅する歴史的大変遷の中で、タイ王国の近代化を推進する運動の中で生まれた二人の政治家の系譜を辿り、先月号で述べた、戦後における国王の政治的な立ち位置を重ね合わせる事でその基本構造が見えてくる。タイ国近代化の過程で代表的な二人の政治家、軍人出身のピブンソンクラーム(以下ピブンと省略して表記する)と官僚出身のプリディーパノムヨン(以下プリディーと省略して表記する)の政治行動を吟味し、この対照的な二人の政治家の行動がタイ国の戦後政治に、どのような方向性を与えたかを考察。その過程において現在の政治状況を紐解く一助としたい。


◎「シャム」から「タイ」への国名変更でナショナリズムを刺激

日本で明治憲法が発布されてから43年後の1932年6月24日、アジアのもう一つの独立君主国タイでヨーロッパ留学帰りの少壮将校・文官を中心とする人民党による立憲制を求めるクーデター(人民党はクーデターとは呼ばず、革命と呼んでいる)が成功した。これにより、タイで最初の憲法が制定されて、議会も発足し、1932年6月28日、議会の選出により、内閣が成立した。タイで初めて議会政治の体裁が整えられた事で、150年にのぼるチャクリー王朝国王による専制政治が終焉したのである。

タイ国ではモンクット王(在位1851年~1868年)からチュラロンコーン王(在位1868年~1910年)へと、19世紀の半ばから20世紀にかけて王族主導の近代化にある程度成功していたが、王族の専制による政治体制では近代化によって世界経済の枠組みの中に取り込まれるという現実には対応できなくなっていた。具体的には1929年に始まった世界恐慌への対処が出来ず、タイ国経済は瀕死の状態に陥ったのである。世界恐慌に対するには経済に精通した専門家の微妙で緻密な国家的対応策を必要としたが、近代的な官僚組織を必要としない王族の専制政治では、この様な世界的な経済危機に対する柔軟な政策をたてることが出来なかったのだ。

人民党はこの後15年にわたって政権を担当する。その中心的指導者の一人は陸軍出身のピブンであり、もう一人が法務官僚出身で後にチュラロンコーン大学と並ぶ名門国立大学、タマサート大学創立者となるプリディーである。この二人は軍人、文官という、それぞれの立場により、第二次大戦中から戦後を通じて政治的対立関係となった。

人民党の中心人物となったこの二名とも王族や貴族の出身ではなく、ピブンは平民の農家出身で、プリディーも中級官吏の子供として生まれている。彼らに代表されるように、人民党指導部は平民や農民階級の出身者で占められており、身分差別的王族支配に不満を抱えていた。

人民党のマニフェスト「人民党の声明書」によると、人民党の政策は主権在民に基礎を置き、国内の王族と平民間の身分差別や貧富の格差、対外的な不平等や人種差別を民主主義体制の創設によって廃止する事を宣言している。これを基礎として平等な国際的地位、国民経済の十分な発展を成し遂げていく事を基本政策として掲げており、君主制は残したものの、国王の権力は極端に制限され、西欧的な近代化を徹底させる事が人民党政権の最重要課題と定められていたのである。

この様に、新しい政治体制では一見民主主義的に見えるが、その実、後に首相となったピブンの独裁色が強かったのである。急速な政治体制の大変革によって混乱した中、組織力の強い軍は新政府内で急速に影響力を増していく。軍人出身のピブンは政府内の軍人派を率い、政権のプロモーター的存在となり、タイの伝統的な政治組織を次々に変革していった。一方、プリディーは極めて優秀なリベラル派の法・経済学者で市民派を率いていた。プリディーとピブンは共にフランスに留学し、二人はフランスのタイ人留学生会会長を交代で勤めた仲であり、6月革命では互いに支持者を引き連れ、協力して革命を成功させたが、革命後、その立場の違いもあって、次第に両人の肌合いの違いが明確になり、互いに政治的意見を異にするようになった。この対照的な二人の政治家の誕生がタイ近代の政治構造のプロローグとなる。

 1938年、軍人出身の人民党指導者ピブンが首相に就任。新内閣において、ピブンは国防・内務の両大臣を兼務し、文官出身のプリディーは蔵相となった。ピブンは陸軍司令官のポストも手に入れ、人民党員である海軍参謀長が海軍司令官となった事から、ピブン内閣は政権・軍共に完全掌握できる事となった。プリディーは閣僚にはなったが、政権内での影響力はこの時期から急速に衰えていったのである。

ピブン内閣はこれまでの王制色をできるだけ薄めていく事に心を砕いた。例えば、かつてチャクリ王朝創始記念日の4月6日がナショナルデーとして祝われていたのを、人民党の「革命記念日」である6月24日をナショナルデーに改めるなどの改革を次々と行った。その中でも1939年6月24日の革命記念日に、国名であった「シャム」を「タイ」と改める事を発表し、タイ人の近代的ナショナリズムを掻き立てた事が特筆される。

  ピブンは、1930年代に日本にできた国家総動員体制に刺激を受け、新政権の基本姿勢として反西欧的なナショナリズムを基調とした政治体制を構築しようとした。その象徴として特筆できるのは、革命翌年の1933年2月、タイ国はリットン調査団の対日勧告を国際連盟が可決した時に投票を棄権した唯一の国となった事である。

 
ピブンは当時、全体主義政治体制がこれからの政治の主流になると信じていた。事実、その当時、全体主義国家である日本やドイツの力が西欧的民主主義国家より世界的に見て優勢に見えていたのである。彼は国家の基盤となるナショナリズムの醸成と強兵政策を成し遂げるためには独裁も厭わない覚悟であった。タイ国のような開発途上国が近代化を成し遂げるためには、強力な独裁が最も効果的な方法であると考えていたからである。アメリカの東南アジア研究者ドナルド・E・ヌークタレインはその著「Thailand and the Struggle for Southeast Asia」の中でピブンのリーダー・シップに対する考え方を次のように表現している。

「ピブンは、シャムの後進性を打ち破り、アジアにおいて重要な役割を担わなければならないと強く決意していた。彼はドイツと日本を、シャムが将来なるべき姿のモデルとして見ていたのである」

ピブンは後発国が近代国家として自立するために必要とされる開発独裁的な政治体制を担う事を決意していたのである。その具体的な表れとして旧領土奪還に着手し、ナショナリズムをかき立てる事にまい進した。1940年から1941年にかけて、フランスがナチス・ドイツに敗れた事を機に、ピブンはむりやり割譲させられたカンボジア、ラオスの領土を巡ってフランスとの敵対関係を造り上げた。


◎タイと日本の友好関係のはじまり、タイ国主権保持のための軍事協定とその後の同盟

日本政府はタイ国の東南アジアにおける戦略的な位置関係と、豊かな農業生産力を重要視して、タイ国との友好関係を強固にする必要性に迫られていた。従って、日本にとってもピブンの政治活動の方向性は日本の国益に合致するものであったのだ。日本はフランスのヴィシー政府とタイ国との調停役を買って出た。そして1941年3月11日、タイ仏両国は日本の仲介で領土問題に関する調印を行い、フランスはメコン川西岸のラオス地域とカンボジアのバッタンガン地区の返還に応じたのである。この事はタイ国と日本が強い友好関係を築いていく第一歩となった。

一方で、タイ国はラオスとカンボジアの旧領土の返還によって、南部仏印に進出した日本と直接国境を接する事にもなった。もし日本がタイ国に侵入を開始した場合、強大な日本の軍事力の前ではタイ軍の力が遠く及ばない事を軍人として知悉していたピブンはあらゆるチャンネルを通じ、米・英に対して軍事援助を要請していた。しかしながら、ヨーロッパ戦線で手一杯の英国はもとより、アメリカもタイと日本の関係に懸念を示し、その要請には応えようとはしなかったのである。

アメリカは1941年12月6日になってタイ国政府に貸付を行う方向性を見せたが、既に時遅く、翌7日早朝(ハワイ時間)には日本軍の真珠湾攻撃が始まり、同時にタイ国も日本軍の攻撃にさらされた。この時、イギリスはシンガポールの海・空戦力を増強したが、タイ国の戦力増強につながるようなことは何もやらなかったのである。日本軍侵攻の瀬戸際まで続いた要求にも関わらず、アメリカ・イギリスからなんら具体的な援助は受けられなかったタイ国は、自国のみで独立を保持せざるを得なかった。

元駐米公使セーニー・プラモートはこの事について、後にピブンの外交政策を解説する文章をアメリカで発表し、その中でこう言っている。

「私が公使としてアメリカに渡る前、ピブン首相にタイ国の外交政策の基本点を訊いた事がある。我々は日本に賛同するのか、それとも英米に味方するのか、はたまたそれ以外の何かのために外交をするのか、と私が尋ねたところ、彼はこう答えた。我々の外交は特定の外国のためにあるのではない、唯一タイ国のためにである」

この事は、何をさておいてもタイ国の独立を保持していく事が最重要課題だというピブン首相の断固たる決意表明に他ならない。首相のこの決意はタイ国を第二次世界大戦に引き込む結果となったが、後に、独立の保持はタイ国民の総意であり、タイ国の国益にかなったものであるとの評価がなされている。

1941年12月8日午前2時(タイ時間・以下同じ)真珠湾攻撃から2時間もたたない内に日本軍がタイ領内のパッターニー、ソンクラーそれにサムイ島など、タイ南部に上陸を開始した。更にカンボジア国境のアランヤプラテート、ラオス国境からも日本軍が侵攻してきたのである。

この時、ピブンは軍の視察のために地方出張しており、バンコクにはいなかった(この件については日本軍の進駐を遅らせてタイに有利な立場をもたらそうとした意図的な雲隠れという説も根強い)。日本軍はタイ国政府に領内通過許可を要求していたが、首相不在のため、最終決定をする者が誰もいないという、権力の空白状況であったのだ。この様な混乱状態の中で、タイ軍は自国領内に侵攻しようとした強力な日本軍との戦闘に挑んだ。

日本軍は海から南タイの6地点とバンコク近くのバンプーに上陸し、陸からはカンボジア国境を越えて中部タイに進駐した。南タイの上陸地点ではタイの軍隊、警察、それに10代を含む軍青年団までもが勇敢に抗戦した。南タイでの戦死者はタイ側将兵(含む警察)149人、民間人39人、日本軍はソンクラー、パッターニーに上陸した第5師団で33人、プラチュアップなど4箇所に上陸した143連隊の部隊などで約108人であったからタイ軍は日本軍相手にほぼ互角の戦いをしたことになり、独立国として日本と対等の立場を世界と日本に示したことになる。しかし、12月8日が終わる頃には日本軍がタイ軍の抵抗を押し切り、侵入に成功した。

日本軍の侵入とタイ軍の戦闘開始を知ったピブンは12月8日早朝、バンコクに引き返し、午前7時に事態収拾のための緊急閣議を開催した。閣議の論点はタイのプライドを捨てて、日本軍に降伏するのか、それとも徹底抗戦するのかの一点であった。軍の首脳は日本軍よりはるかに貧弱なタイ軍に勝ち目は無く、米・英の援助も得られない現状では降伏するしか選択肢は無いと主張し、もしこのまま抵抗を続ければ日本軍に完全征服されてしまうとの見解を述べた。これに対して、プリディー派は強硬な徹底抗戦論を唱えた。ピブン首相はプリディー派の意見を退け、タイ軍に停戦を命じ、「日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定」に応じた。

ピブンはこの協定を結ぶに当たって、東南アジア唯一の独立国としての立場を前面に押し出す交渉を行った。それは、日本の大儀である「アジアの植民地を欧米から解放する」という大東亜共栄圏構想を巧みに利用して、タイ国の主権を最大限残す事に努力する事であった。その結果、要約すれば、以下のような4つの協定を結ぶ事となった。

1. タイ政府は日本が領内を通過してマラヤとビルマに部隊を送ることを許可する。

2. 日本軍はタイ軍を武装解除しない事。

3. 日本軍はバンコクに留まる事なしに単に通過するのみである事。

4. この合意は軍事行動のみの事で、軍事同盟や政治的なことは含まない。

タイ国政府は日本との軍事協定にサインしたが、ここでも見られる様に、随所で「許可」という言葉を使い、タイ国内での日本軍の行動に制限を加え、あくまでもタイ国に主導権がある事を内外に示し、独立の保持をアピールしたのである。この協定で数千人のタイ人の命が救われ、街や農場が破壊から免れる事が出来た。しかも、戦闘を続けた結果、もたらされるであろう完全植民地化も防ぐ事が出来、上述のように何とかタイ国の体面が守られたのだ。

 ピブンの政策は、結果的には日本軍のタイ領内への侵入をくい止めるという目的の達成には失敗するが、上述のような一連の外交努力を概括すれば、強力な敵に対して、それに対抗する事無く、相手の出方を見つつ、政治的均衡を保ち、そのバランスを利用して独立を保持しようとする、したたかで巧み、且つ極めて現実主義的なタイ国外交の本質が見えてくるのである。この様なボナパルティズム的な政治体質は、後に述べるように自由タイ運動の創設に繋がり、第二次世界大戦を巧みに乗り切った結果、戦後においてもタイ国独立保持のために遺憾なく発揮されている。

上述した「日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定」に基づいて日本軍はカンボジアからもタイ領内に入り、12月9日には中部タイを実質上占領下に置いた。そして、翌12月10日正午過ぎ、マレー沖海戦で日本軍はイギリス東洋艦隊を壊滅させた。この状況下では当分イギリス、アメリカの軍事的反抗は期待できそうに無く、タイ国が近い将来、連合国から援助を得て日本軍に対抗する事は絶望的となったのである。孤立無援となったタイ国のピブン首相は日本の求める「同盟条約仮調印書」に署名し、次いで12月21日には「日本国タイ国間同盟条約」に調印せざるを得なかった。

そして、1942年1月25日には米英に対して宣戦布告するに至った。ピブン側としてはこれでタイ軍は武装解除を免れる口実が出来た事になり、タイ軍が残れば、アメリカ、イギリスが勢いを盛り返してもタイ国内から米・英を軍事サポートできるとの目論見があったとされている。ピブン政権としては宣戦布告を連合軍側、日本軍側の双方に都合の良い解釈を与えるものとして位置付けていたのである。


◎プリディーの閣外追放から芽生えた自由タイ運動

日本軍の侵入直後に、ピブン首相は内閣の統制を強めるために内閣改造を行った。最も重要な人事はプリディーの閣外追放である。ピブンは1941年12月16日、プリディーを蔵相からはずし、摂政にした。更にはプリディー派の重要人物であるディレク・チャーナム外相を降格させて、日本大使に任命したのである。その他のプリディー派の主だった者の多くが降格され、権力の中枢から遠ざかる事となった。この人事は一見、ピブンが日本との同盟関係を円滑にするため、反対派のプリディーを追い落とした権力争いのように見えるが、その実、プリディー派にとっては、後に自由タイ運動を推進していくためには極めて好都合な人的配置となっていた。

プリディーはスイスに留学中のアーナンダマヒドン王の摂政となった事で、例え、形式的であったとしても、タイ国の重要法案や外国との条約に彼が署名しなければ、正式に発効したものとは見なされないという重要な役職に付いたと言えるのである。また、ディレクが駐日大使として東京に送られた事は戦争中の同盟国の大使として、日本軍の軍事機密に接触できる利点があった。更には、その他のプリディー派が政府の要職を離れたが、彼らは降格された事で、政府及び官僚組織の目立たない部分で実務者として、プリディーの政策を実行できる立場に付く事になったのだ。

現実問題として、プリディーの画策で対米英宣戦布告は違法となった。タイ国の法律によれば、法律や、条約、宣戦布告などが発効するには摂政委員会全員のサインを得て、国王の名前で発行された物でなければならないとされている。が、プリディーは宣戦布告にサインする事を拒否し、雲隠れしてしまったのだ。結局は摂政委員会メンバー三人のうちプリディーを除いた二人のサインだけで宣戦布告文が国王の名前で発行される事になってしまった。

 この「違法文書」の存在がタイ国の戦時中の立場を説明するのに重要な役割を果たす事となった。この時問題になったのは宣戦布告がタイ国民の総意なのか、それともピブン首相の独断専行なのかという点であった。ピブン首相にはプリディー摂政が宣戦布告文にサインしていない事は知らされていた。にもかかわらず、首相は閣議において、全員一致で宣戦布告文章を承認するように強力なリーダーシップを発揮したのである。

事実、1942年1月25日に駐アメリカ公使セーニープラモートが宣戦布告文を持ってコーデル・ハル米国務長官に面会した時の事について、ハル国務長官は

「我々はタイ国を敵国と考えなかった。タイ国政府は日本の支配下にあり、タイ国民の意思を代表する立場には無いのでアメリカ政府は(タイ国に対して)宣戦布告はしなかった」

と後に述べている。プラモートはこの時、国務長官に宣戦布告書を手渡さなかった。


◎日本の敗戦を予見したプリディーの親米・英政策

日本軍がタイ国に侵入を開始した時、プリディーは戦争の行方についてピブンと正反対の見解を持っており、その事についてこう述べている。

「日本は東洋で最も発展した国で、何でも西洋人と同じように出来る。西洋人が互いに破壊しあった後、再興しようとしてももう日本には追いつかない。これまでの西洋を中心とした発展は日本をリーダーとして東洋に移る。しかし、参戦してしまった日本は最後には間違いなく敗北する。(中略)自分も見学した事がある彼らの大量生産方式から見て連合国側の武器生産力は質量共に日本以上だ。(後略)」

連合国の最終勝利を予想するプリディーにとっては、日本に戦争協力するピブンの政策は受け入れ難いものであった。彼は1941年12月8日の開戦直後、自宅に集まった同志と共に「抗日レジスタンス組織」を設立する事を決定した。

プリディーはレジスタンス組織の在り様と目的を次のように語っている。

「この組織は二つの役割を実行する。第一番目はタイ愛国軍を組織して連合軍と協力しつつ日本の侵略軍と戦う事だ。第二番目には連合国に対してタイ国民の真意は連合軍と敵対する事にはない事を確実に認めさせる事である」

 この様なプリディーの言にあるように彼が中心となった抗日運動は徐々に具体化していった。初期の指導者は、そのほとんどが1932年の革命を経験した自由主義的な考えの市民達であり、ピブン首相とは相反する政治哲学と思想を持ったプリディー派で占められていた。彼らは自らを「XOグループ」というコードネームで呼び、その活動はピブン政権から厳しくとがめられる事も無く、タイ国内及び、海外においても日本の監視網にかかる事無く秘密を保ち続ける事が出来たのである。指導者達は秘密保持のために互いをコードネームで呼び合い、メンバーは少人数のグループに分けられ、グループは互いに孤立していた。この様な組織であったため、実際の活動家達の多くはプリディーが抗日運動全体を指揮していたことを知らなかったという。

アメリカでは、1941年12月8日直後から駐米公使のセーニープラモートを中心に「自由タイ運動」が始まり、イギリスでもタイ人留学生や亡命中のスパサワット親王らによって同様の運動が始まった。

タイ国内の抵抗運動の士気が飛躍的に高まったのは、サンフランシスコのラジオ局KGIAが海外在住のタイ人が抵抗運動を始めたことを報告した時からであった。KGIAはアメリカ政府が経営する放送局で、タイ国を含む太平洋地域で占領されている国々に向けて現地語で放送していたラジオ局であった。この局がタイ国に向けて初めてアメリカはタイ国への宣戦布告はしない事を放送したのである。

この放送は短波のみで聞く事ができるものだったが、XOグループには特別な意味があった。このニュースでプラモート駐米公使が本国政府の命令に反して、宣戦布告を手渡す事を拒否したのが判明し、アメリカを始め、連合国在住タイ人の間に抗日運動が始まっている事を確認させた事になったからである。プリディーは一刻も早く、タイ国内で起きた抗日運動の存在を海外に知らしめ、連合国からの支援を得たいと考えていたので、この事は彼と抗日運動にとっては計り知れない精神的効果があった。

タイ側から連合国への連絡の努力は初期のうちから続けられていた。が、タイ国内には強力なコミュニュケーション施設が不足していた。プリディー自身もタマサート大学内に秘密の通信基地を設置し、日本軍の動向を中国やインドの連合軍に向けて発信した。その結果、連合国は基本的にタイの抗日運動を全面的に支援することが決まったのである。

1943年以降は自由タイ運動があらゆる面で進展した。その最も大きな原因は自由タイ運動メンバー達の命がけの努力が実り、連合国からの援助が得られる事が確実となった事であった。1944年初頭にはアメリカの自由タイ運動が正式にアメリカ政府情報局の支援を受ける事となり、OSS(Office of Strategic Service)の情報員がタイ国内に潜入してくるようになったのである。イギリスの自由タイ運動も政府の支援獲得に成功し、情報チームがインドに送られ、タイ国内のメンバーと連絡を取りながら日本軍の情報収集を開始した。これに呼応して、タイ国内の抗日運動組織も警察高官や陸・海軍の将軍など、広い範囲から活動家を集めるようになった。同時に、中国南部の連合国要員との直接連絡も頻繁に行われるようになったのである。

 この時期からタイ国内では抗日グループによる日本の施設や日本人に対する小規模なテロ活動やサボタージュが頻繁に起きるようになった。日本軍兵士が一人でいるところでは、しばしば何者かに殴られたり殺されたりした。ガソリンや食料の供給が妨害され、盗まれる事も多かったのである。更にはバンコクの駅長が弾薬を積んだ4両編成の列車を運転してチャオプラヤ川に落とした事件があり、この駅長が処刑されている。

この後、イギリス軍の飛行機で運ばれたタイ人達が夜間に次々とパラシュートでシャム湾に降下し、自由タイメンバーのモーター・ボートで集められて、バンコクに運び込まれたのである。バンコクに潜入したアメリカ軍の拠点も日本軍駐屯地の目と鼻の先にあるタマサート大学内に設立されていた。

米英の情報機関と海外から侵入したタイ人、それに自由タイのメンバー達は協力して日本軍の情報を流し、連合軍に詳細な爆撃目標を伝えるなど、その軍事的成果は飛躍的に上昇したのである。1945年に入るとタイ領内の各地にアメリカ・イギリスの軍事援助を得た自由タイの軍事キャンプが生まれ、自由タイの志願兵たちが日本軍への反撃に備えるまでになっていた。

1943年を境に日本軍の敗色が強まり、バンコクを始めタイ全土の主要都市は連合軍による定期的な爆撃に晒されていた。全ての鉄道が破壊され、発電所が爆撃され、石油は枯渇し、医薬品、機械類など、あらゆる生活必需品が海外からも入らなくなっていた。タイ国は外国から完全に孤立した状態になっていたのだ。

戦争初期、タイ政府は日本に対して必要な物資を要求する事が出来た。しかし、後半になると、余裕を失った日本は全ての資材を戦争目的のために使おうとしたのである。更には日本の商船隊が攻撃され、タイは日本からも孤立してしまった。物価はうなぎ登りに上昇し、政府が使用する紙さえも不足した。

日本軍の命令と要求は日増しに強くなり、戦争遂行のために米を大量に供出しなければならなくなった。そのため、米の値段が高騰し、やがては世界有数の米生産国であるタイ国が米の配給制度を敷かなくてはならない状態になったのである。タイ国民はこの様な困窮状態になった事はかつて経験した事が無かった。タイ人の間には厭戦気分が高まり、日本軍に対する憎しみが蔓延し、やがてその矛先は日本軍に協力的な態度をとり続け、独裁的な権力をふるったピブン政権に向けられたのである。

 ピブン首相も、日本の敗色が濃くなった1943年半ばから日本軍の支配体制から逃れるため、密かに首都を北部タイのピチャブンに移そうと試みた。1944年7月、ピブン首相は遷都を国会に諮ったがプリディー派の反対にあい、これがきっかけとなって、1944年7月24日、ついに首相を辞任する事となる。


◎ピブン失脚とプリディーの首相就任

 日本敗戦の翌日、1945年8月16日、摂政となっていたプリディーは平和宣言を発し、タイのアメリカ・イギリスに対する宣戦布告の無効たる事を明らかにした。しかし、アメリカとイギリスのタイ国への対応は大きく違っていた。アメリカは自由タイ運動に理解を示し、タイは日本の占領下であったと認定し、日・タイ同盟を結び、アメリカに宣戦布告した事についてはその非を責めないという態度をとった。しかし、アメリカと違ってこの地域に植民地を持ち、タイとの間に多大な利害関係を持っていたイギリスの態度はことのほか厳しく、タイ国を日本と同等の敵対国と認定していたのである。

イギリスはタイ国に強烈な圧力をかけ、タイ国内法として戦犯法を公布させ、1945年10月16日、戦争当時の首相であったピブンらを逮捕させた。さらには、米などを賠償としてタイに提供させている。その後、1946年1月1日の公式協定でイギリスはやっとタイとの戦争状態を終結させたのである。

 しかし、結局はイギリスもアメリカと同じく、戦争中、連合国に協力した自由タイ運動の功績を認め、タイ国を国際的にも敗戦国の位置付けにはしなかった。そしてこの直後、1946年3月23日、タイ国の最高裁判所が戦犯法は事後立法であるため違憲、との判決を下し、戦犯として逮捕されていたピブン達を釈放してしまうのである。その結果、タイ国政府はイギリスの影響力をそぎ、タイ国の外交関係史の中で終始一貫して好意的な態度を示してきたアメリカとの関係を重視する事となった。

 戦後のイギリスとのせめぎ合いの中で、力を失ったピブンに替わってタイ国政界に絶大な力を持つこととなったプリディーは、1946年3月、自ら首相に就任する事となった。その3ヵ月後の1946年6月9日、アーナンダマヒドン国王がベッドの上で額を至近距離から射ち抜かれて死亡するという怪事件が起きた。その日の内にプリディーは王弟プミポンを王位継承者として国会に諮り、国会は全員一致でこれを承認した。しかし、この国王怪死事件がきっかけでプリディーは1946年8月に首相を辞任し、後に中国に亡命する事となった。プリディーの国王怪死事件処理が不明確で、原因究明も不十分なまま中国に亡命した事が東西冷戦の対立関係の絡みから、当時様々な憶測を生んだが、その真相は未だに不明である。


◎ピブンの返り咲きは米・英の反共の思惑が合致

 1944年のピブンの首相辞任以来、政権から遠ざけられていた陸軍は国王怪死事件究明を大義名分として1947年11月8日、クーデターを起こし、ピブンを国軍最高司令官として迎えた。その後、ピブンは戦犯であった事を気にしてアメリカ・イギリスの反応を慎重にうかがった後、1948年4月8日、自ら首相として再登場する事となったのである。そして3年後の1951年11月29日、ピブン首相は憲法を停止し、議会と政党を廃止するが、その時の大義名分は「共産主義の脅威との対決」であった。

 ピブンは政権に返り咲いた直後に、自分の政権を強権的な保守主義であり、反共政権である事を明確に表明した。この事で、朝鮮戦争を機にソビエトと中国に対して厳しい封じ込め政策をとり始めていたアメリカとイギリスは、ピブン軍事政権を冷戦構造構築に役に立つ政権として認識するようになったのである。アメリカにとってはタイ国に民主主義的な憲法政治を発展させる事よりも、ピブン政権の保守的で強権的な体質を利用して共産主義の拡張を止める事のほうがより重要であったのだ。

 ピブンもまた、その様な国際情勢を的確に見抜き、大戦後の新しい国際政治の流れを利用してタイ国が生き抜いて行くには、アメリカとの緊密な外交関係を結び、経済的、軍事的援助を受けることが最も重要との結論に達したと推察しても、これまでの彼の政治的立場、及び、その手法からしても、蓋然性は極めて高いと言わねばなるまい。

 中国に政治亡命していたプリディーは北京から、ピブン政権はアメリカ帝国主義の操り人形であると断罪し、タイ人民が圧政に対抗して立ち上がる事を促すメッセージを発した。タイ共産党はこのプリディーの立場を熱烈に支持し、活動を強化した。この様な、プリディーの現実認識を欠いた政治姿勢ではタイ国の独立維持と、冷戦という新たな状況は担いきれないし、アメリカの意向とも相容れない状態である事が明確に見えてきたのである。戦争中はプリディー派の行動が大いに功を奏して、戦後初期にはアメリカの好意的な態度を引き出すのに成功したが、この時期以降、プリディー派の政治姿勢はタイ政界の受け入れるところではなくなってしまっていた。


◎対立関係にあるピブンとプリディーが共通する「タイ国の独立と自由」

これまで述べてきたように、ピブンとプリディーという、二人の政治家の存在はタイ国近代政治の基本的枠組みを形成したという点で極めて重要である。この二人は第一次世界大戦直後の1920年代にパリに留学し、まさに「ロスト・ゼネレーション」と呼ばれる精神的な自由さとロシア革命後の革新的な社会思潮の中で青春時代を送ったことになる。デモクラシーのイデオロギーが燃え盛る中で、彼らは本国タイが国王専制の澱んだ社会である限り国家そのものが耐えられないと考えるようになった。ドイツのカイゼル、オーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルグ、そしてロシアのロマノフ王朝崩壊と、彼らが目にしたヨーロッパ各国のデモクラシー体制に傾倒し、王制を終了させて、近代化を図る事こそが国家を発展させる道であると考えるようになったのは自然の流れであったと言えよう。

後に、ピブンとプリディーは互いに同志を引き連れ、革命を成功に導き、タイの近代化に貢献する事になる。しかし、その後、双方の強力なディクテイター・シップよる政治運営を見ると、二人をも含めて革命を担った若者たちが一体どれだけデモクラシーの意味を理解していたのかが、タイ国近代政治を分析するための要素の一つとして見えてくる。

この事に注目したタイの歴史家タワットモカーポンはその著書「History of The Thai Revolution」の中でこう言う

「彼らのほとんどが感銘を受けていたデモクラシーとは西欧風の近代化であり、彼らが熱望していた「革命」であった。しかし、彼らはデモクラシーを表面的にしか理解していなかった(これは彼らのほとんどがデモクラシーを曖昧にしか理解していなかったという意味だが)のである。革命の指導部におけるイデオロギーの欠如は革命後に表面化する。彼らが遂行した革命後の政治行動は、政治的理念の争いではなく、個人的なライバル争いであり、それがタイの近代政治を特徴付ける要因となった。従って、彼らの政治行動を研究するには指導者達の個人的な背景を吟味しなければならないのだ」

これまで、本稿で述べてきた事とタワットモカーポンの見解とを照らし合わせれば、その政治的特徴は客観的な基準を持つ政治的理念に基づく政策の施行は少なく、多分に権力者の個性的な発想と決断に基づいているという点に至る。従って、たまたまこの時期、ピブンとプリディーという相反する個性が、あたかも弁証法的な政治状況を作り出す事に成功し、この事によって、第二次大戦後のタイ国政治の方向性に選択肢を与える事となった、という解釈が成り立つ。それは本稿で述べたように、日本の侵攻を巡って繰り広げられた戦時中の二人の政治闘争の様相に特徴的に現れていたと言えよう。

しかし、翻って見れば、この二人の間に共通する揺るぎなき政治的立脚点があった。それは「タイ国の独立と自由」に集約されている。プリディーは日本軍が侵攻してきた日に自宅に集まった支持者達と議論を交わし、抗日組織を形成するに至った過程をプリディー顕彰委員会発行の文章の中でこう言っている

「何度も議論を重ねて生涯をタイ国の独立を回復するために捧げるという決定に至った。そして、最終的には国の内外を問わず、階層や社会的地位に関係なく、全てのタイ人の愛国心に基づく抗日組織を設立する事に全員が合意した。この会議で私は議長に信任され、将来の行動計画の決定を一任されたのである」

一方、ピブンも日本との同盟条約にサインした後の1941年11月14日、対日関係の閣僚を集めて

「現在生じている事は山上から大岩が突然落ちてきたようなものだ。ひどい目に遭わないように身を避ける方が賢明だ。日本の要求は即決を要する事なので直ちに便宜を与えよ。日本側に不信感が生じ、タイが占領されたら元も子もない」

 と述べている。ピブンは戦争中、プリディー派の動きを察知していたにもかかわらず、さして取締りの強化はしなかった事、更には、宣戦布告の決断を単独で行った件などは1951年9月8日サンフランシスコ平和条約締結後、単独で日米安保条約に署名した吉田茂の状況に似たものであり、本稿で述べたような行政当事者としての断固たる行動をとったと言えるだろう。この様に、ピブンとプリディーの両者はお互いに対立関係にありながら、二人に共通していたのは「タイ国の独立の保持とタイ人の自尊心の維持」であり、互いにアプローチの仕方は違ってもその目指す目的は同じところにあった。

この様な両者正反対に見える政治行動を外部から見れば、「柔構造の政治」として映るが、本稿で述べたように、タイ国近代政治を特徴付ける柔構造の芯にはパトリオティズムとナショナリズムが未分化状態として存在しており、それを中心として動く、「国権振張のための民権の拡充」「民権拡張による国権の動揺」「国権振張のための民権の抑圧」というサイクル運動がタイ政治のダイナミズムを構成していると言えよう。このことを前提にすれば、現在のタイ国政治事情は当時との差はほとんどなく、二人の政治家の対立構造に根差しているとの分析が成り立つだろう。即ち、「タクシン的な政治」は民衆に軸足を置いたプリディーの系譜にあたるものであり、現代的な意味においては徹底したポピュリズムであり、その意味では現実を直視した政策がとりにくく、財政を無視したばらまき政策になっていく。次号では今回の分析を踏まえて現在起きている政治的対立を吟味する。

 

 


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