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国士舘大学政経学部政治学科講師


第二次世界大戦後70年を迎えて-忘れ去られたそれぞれの開戦理由-第二話



理由が異なる米・英の第二次大戦参戦への経済事情



◎当時のアメリカは大恐慌により各地で元軍人がデモ

 1932年の4月ごろ、第一次世界大戦の退役軍人たちが大恐慌の深刻化で生活が行き詰まり、20年据え置きの年金を即時全額支給するように求めた陳情運動がオレゴン州のポートランドで自然発生的に生まれた。そして、約300人の元軍人が「年金遠征軍」と名乗り、鉄道の貨車に乗り込んで首都ワシントンを目指した。運動は瞬く間にアメリカ全土へ広がり、夏までに総勢2万5000人もの元軍人が徒歩やバスでワシントンに集まった。元軍人たちはアナコスチアの空き地に掘っ立て小屋を建てて集落を作り、議会やホワイトハウスの周辺でデモを行い、年金の即時支給を訴えた。

 1929年の株式大暴落で始まった大恐慌は32年には早くもピークに達していた。国民総生産は時価で半減し、失業者は全労働者の4分の1。スープ配給所には長蛇の列ができ、掘っ立て小屋の集落が全米のあらゆる都市にできた。各地でストや農民反乱が続出し、1932年3月にはデトロイトで失業者のデモ隊と警官隊が衝突し、4人が死亡する流血事件が発生。7月28日には議会近くでデモ隊に警官が発砲し、「年金遠征軍」から2人の死者が出た。フーバー大統領(当時)はこの事件をきっかけに陸軍に出動命令を出した。その指揮官に命ぜられたダグラス・マッカーサーはホワイトハウスの南に集結した戦車5輌を含む部隊を指揮し、副官にドワイト・アイゼンハワー(後に第二次大戦でのヨーロッパ戦線司令官・アメリカ大統領)らを従えて自ら出陣する。武器を持たない遠征軍に対してマッカーサーは過酷だった。彼は「遠征軍の包囲」に限定された大統領命令を無視して遠征軍を蹴散らし、掘っ立て小屋を焼き払った。元軍人を現役の軍人が命令違反までして徹底的に痛めつけたこの事件は、その年の11月に行われた大統領選挙でフーバー大統領の落選を決定づける事になる。

 古典的な自由放任主義経済を信奉していたフーバー大統領は、アダム・スミス(イギリスの古典経済学者)の『国富論』にある最適な資源配分を達成する市場による調整機能を指す言葉「神の見えざる手」による経済の自動回復力を信じ、積極的な恐慌対策を採らなかったのである。このため、遠征軍事件の様な騒動が全国で発生し、社会混乱が深刻度を増していった。

 1933年3月4日第34代大統領になったのは民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトであった。破綻した古典的資本主義を救うには新しい国家観と経済学が必要であった。それがケインズ経済学(ジョン・メイナード・ケインズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』を中心に展開された経済学)だ。この中身を端的に言えば政府が財政支出を行い、市場を管理しながら、有効需要を創出していく手法だ。そのための資金は増税ではなく、財政赤字で賄う事としていた。健全財政が景気回復の道と信じられていた当時、この手法は社会主義の計画経済に通じるとして、危険視されていた。しかし、ルーズヴェルト新大統領は総額50億ドルにのぼる大規模な公共事業計画を発表。教科書でも習った事があるTVA(テネシー渓谷開発事業公社)による総合開発事業を始め一連の「ニューディール政策」と呼ばれる政策を押し進める事となった。だが、大統領が決断した財政支出ではまだ不十分だった。アメリカが大恐慌を脱して失業を一掃するのは、1940年代に仕立て上げた戦時経済体制で巨大な戦費支出が始まった後である。なぜなら、戦争は国家が行う究極の公共事業でもあるからだ。前号で詳述したように、ドイツも同じく公共事業を活発化させて経済危機を脱しようとしたが、究極の公共事業である戦争に突入してしまった。ナチス(国家社会主義)ドイツとアメリカの民主党政府は経済政策上同じ道を辿って行ったのである。



◎恐慌から脱却するため参戦に導くルーズヴェルト大統領

 1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。ルーズヴェルト大統領は恐慌から脱却するためにこの戦争に参加する必要に駆られていた。が、大恐慌による内向きの国民意識を背景に孤立主義が全国に広がっていた。1936年の世論調査ではなんと、国民の95%が将来起こるであろうヨーロッパの大戦への参加に反対していたのである。大統領はアメリカ人の孤立主義の感情をヨーロッパ介入へと転換させるためにあらゆる手段を用いていた。例えば、日本の真珠湾攻撃でアメリカが参戦した後の1941年12月27日の海軍記念日夕食会でもルーズヴェルトは、自分はヒトラー政府が作った秘密の地図を手に入れたが、それは南アメリカおよび中米の一部の地図で、ドイツはこの地域を5つの国に再編成してドイツの支配下に置くことを計画していると発表。アメリカ全体の安全が脅かされているという印象を与えようとしたことがある。これほどまでにして戦争気分を盛り上げようとした背景には1935年に制定された中立法がある。この法律では侵略者か非侵略者であるかを問わず、交戦国への借款や資金援助、武器輸出を自動的に禁止した。このため30年代後半の欧州や中国大陸の戦争で実際には中立の建前を超えて、ドイツと戦っているイギリス、フランスや日本と戦っていた中国への支援に熱心だった大統領の手を縛る結果となっていたからである。



◎第二次大戦で経済復興し豊かになったアメリカ

 それを一変させたのが、日本軍の真珠湾攻撃だ。130人を超えるインタビューをまとめたスタッズ・ターケルの大著『良い戦争』(中山容他訳・晶文社=ピューリッツアー賞受賞作品)の中にこんなコメントがある。

「(第二次大戦中)当時は誰もが今の自分よりも重要な自分という自覚があったな。今やっている事よりはるかにいい事に参加しているって感じだ」

 このアメリカ軍元伍長の言葉に、日本人として奇妙な印象を受けるのは私だけではないだろう。もちろん、この本には戦争に対する苦渋に満ちた告白も収められているが、総じて言えば、この本に登場するアメリカ人の大半は第二次世界大戦を明るい時代として語っている印象が強い。事実、第二次世界大戦はベトナム戦争と違ってアメリカ国民の圧倒的な支持を受け、戦時国債は次々とさばけ、増税への反対もなく、インフレも存在しなかった。数百億ドルの資金が戦争に投入されたが、国民の消費生活には何らの変化もなく、むしろ逆に1939年から1945年にかけての個人一人当たりの実質消費は11%上昇している。

 統計を見ると、アメリカでは大恐慌時代の1930年代よりも戦争に突入した1940年代の方がより多くの大砲とバターを同時に増産しているのだ。開戦と同時に白人も黒人も、男も女も、平等に手を取り合って働き、戦車、戦闘機、空母、爆撃機を作った。生産性の上昇はかつてないほど目覚ましかったのである。1938年当時、女性も含めて、わずか32万3000人弱の兵力しかなかったアメリカが、やがて1000万に及ぶ兵力を動員し、大恐慌で休業していた工場が息を吹き返し、フル操業に入ったのだ。戦争は暗く絶望的な恐慌時代を終わらせ、人間社会、組織の連帯感と共同意識を高め、自殺、犯罪、神経症、アルコール中毒、家庭内暴力、そのほか諸々の社会的病理を収束させ、「国家の健康」を回復させた。言わば、ぜい肉をそぎ落とし、シェイプ・アップ効果をもたらしたのだった。産業界でも、平時なら企業内の無駄など、ギクシャクしたマイナス要因が、戦時には一挙に除去される。アメリカ人にとって戦争は、卑劣な黄色い野郎どもが仕掛けてきただまし討ちで、やむなく立ち上がった正義の自衛戦争であり、ヨーロッパで荒れ狂うファシズムの野蛮と暴虐から西欧文明と民主主義を守る聖戦であった。真珠湾攻撃後、大ざっぱな言い方をすれば、アメリカのキャンパスから学生の姿はほとんど消え、五体満足な若者で軍に志願しない奴は女性から相手にされなかった。若いGI(アメリカ軍兵士)達は戦争中のアメリカを象徴するようなジープに乗って世界中の野山を颯爽と駆け巡っていたのである。

 それに対して、日本ではいったい何人の学生が心の底から戦争を大東亜共栄圏創設のための聖戦と信じ、進んで軍務に志願したであろうか。出陣学徒達の手記を集めた「聞けわだつみの声」や、特攻隊搭乗員の遺書などからは、明るく希望に満ちた調子の文章はほぼ皆無であろう。空襲で全土が焼け野原になった事で更に精神的荒廃に陥った日本人の戦後とは対照的に、アメリカ人はハイテンションのまま戦後を迎えたのである。

 しかし、問題はアメリカの戦争体験が、この様な特殊事情を戦争後も持続させる結果となってしまったことである。第二次大戦の戦争経済があまりにもうまくいってしまったため、戦争が終わってもアメリカはすぐに平時経済に移行できなかったのだ。この原因の一つとして挙げられるのは、第一次世界大戦後、すぐに平時経済に移行したために大恐慌に陥ったという苦い経験がある。第二次大戦後はその反省を踏まえたところもあった。が、もっと大きな原因は戦時中、アメリカの産業自体が戦時動員システムの中に組み込まれていたことにある。

 戦争中、アメリカでは260億ドルもの資金が新規プラントや産業施設(その3分の2が政府の施設)に投入されたが、戦争終結によってそれらの軍事生産施設は2足3文の捨て値同然で大企業に売却された。全米の大手企業の250社がそのプラントの70%以上を獲得したのである。これは、大手企業が恒久的な防衛産業に組み込まれてしまったことを意味した。その結果、企業は稼働率を高めるために軍事費の増大を求めるようになる。軍事費を増やすためには、その対象となる新たな仮想敵が必要だ。その敵国はソ連。こうしたアメリカ国内体制の構図が「冷戦体制」を作る要因になったと言えよう。



◎大恐慌をブロック経済体制で乗り切ったイギリス

 第一次大戦後の世界恐慌からいち早く脱出に成功したイギリスはアメリカのように戦争を必要としていなかった。イギリスはアメリカとは全く正反対の形で戦争に入って行ったのである。第一次世界大戦後に起きた世界恐慌からの脱却をめざすイギリスは、緊縮財政の実施、金本位制の停止、保護関税の導入などの対応策に続き、1932年7~8月にカナダのオタワで連邦経済会議を開催し、大英帝国内部で相互に輸出入関税率を優遇し合う特恵制度を導入。金本位体制に代わる国際通貨圏をポンドの影響力の強い植民地や自治領地域で構築するブロック経済体制を作り上げた。が、これらの政策は、イギリスが19世紀以来築き上げてきた国際金本位制=ポンド制(事実上イギリスのポンドが世界基準通貨とされていた)と、圧倒的な工業力で世界経済を支配した自由貿易主義を放棄せざるを得なくなったことを意味しており、イギリスの覇権国としての地位が保てなくなった事を示していた。しかし、これで何とか世界帝国としての体面を保つ経済体制の構築に成功。やっと世界恐慌を乗り切る事が出来たのである。このため、1930年台後半のイギリスは保守党政権下で相対的安定期を迎える事となった。



◎ドイツに対し宥和政策を採っていたイギリス

 ヨーロッパ大陸ではヒットラーの台頭で緊迫の度合いを深めていたが、ドーバー海峡を挟んだイギリス本国の反応は鈍く、当時のボールドウィン首相らの関心を占めたのはアメリカ人のシンプソン夫人との結婚を熱望した国王、エドワード8世の処遇であった。「王冠をかけた恋」ともてはやされたこの顛末は、結局国王は退位して恋に走って幕を閉じた。この様に、イギリスは国内問題に引きずられ、ヨーロッパ大陸で進行していたスペイン内戦(1936年6月)から1939年、第二次世界大戦の始まりとなったドイツのポーランド侵攻までイギリスの外交政策は、行動がほとんど伴わない鈍い対応しかできていなかった。後になって「宥和政策」と言われたイギリスの外交政策はナチスの言い分を極力受け入れて宥め、対立を避ける事を大原則としていた。

 その担い手となっていたのが、ボールドウィンからチェンバレンへと続いた保守党内閣だ。ナチスが急速に再軍備を進める中で、イギリスは世界恐慌対策などで手一杯だった事と、それに伴う財源不足などが重なり、軍備増強がままならないという認識が対立回避の背景にあった。最も強力な圧力となったのは、当時のイギリス国民であった。第一次大戦で疲弊した国民の間に厭戦線気分が蔓延し、1934年、ボールドウィン内閣時代の蔵相チェンバレンが提案した防衛費増強案に国民の間で反対運動が起きた。軍備増強は国民生活を圧迫するとして、再軍備反対の平和運動での署名活動には1100万人が署名。ナチスに対抗するには軍備よりもソ連やフランスと共同する外交政策が必要だとする世論が圧倒的多数を占めたのである。このため、ボールドウィン首相は近づく選挙を考慮して、軍備増強に反対する方向に政策を切り替えざるを得なかった。

 が、その間ヨーロッパ大陸の状況は刻々と深刻度を増してきた。1935年にはイタリアがエチオピアに侵攻し、イギリスの死活を握る地中海が危機に陥った。もう一つの危機はスペイン内戦だった。1936年7月、イタリアのムソリーニとドイツのヒットラーに通じたフランシス・フランコが右派軍を従えてソ連に支援された左派の人民戦線政府に攻撃を仕掛け、反乱を起こしたのである。フランコが独裁政権を樹立させるより以上に共産主義政権の出現を恐れていたイギリスは、内戦開始と共にフランスがスペインの内戦に対して不干渉を列強各国に呼び掛けると、イギリスはこれに飛びついて、最も熱心な遂行者になったのである。不干渉条約は1936年、英・仏・独・ソ等が調印し、その年9月には国際不干渉委員会が発足した。このスペイン問題を巡る一連のイギリスの動きはイギリスの宥和政策の始まりであった。

 しかし、この不干渉政策は全く機能しなかった。大戦後公開された資料によれば、ドイツは不干渉条約に調印した翌日の8月25日、陸軍の特殊工作担当将校にフランコ支援の密命を下している。その後、ドイツはイタリアと共に輸送機、爆撃機などを提供。パブロ・ピカソの絵で有名になったゲルニカ無差別爆撃もこの支援を利用したものである。イギリスの宥和姿勢はヒットラー、ムッソリーニを勇気づけ、ボールドウィン首相の後を継いだチェンバレン首相は折につけてヒットラーを宥める姿勢を示した。ドイツに対して、イギリスの保守党政治家の中にはベルサイユ条約が過酷すぎたという認識があり、できるだけ言い分を聞こうとする傾向が強かったのである。

 その間、スペインの戦況はフランコ勝利が決定的となった。1938年にはドイツがチェコスロバキアのスデーテン地方に住む300万人のドイツ系住民を保護するとの口実で侵攻を計画していた。チェンバレンはそれでもナチスを宥めるような努力を続ける。自ら2度ドイツに飛んでヒットラーを説得したばかりか、ヒットラーがミュンヘンで、イタリアのムッソリーニ総統、フランスのダラディエ首相も加えた4者会談開催を呼び掛けると直ちに同意。結局会談でチェンバレンはスデーテン地方のドイツへの割譲を認めた。チェコは自国が除外された会議でイギリス、フランスから見捨てられたのである。



◎ドイツのチェコ侵攻によってやっと参戦準備を整えたイギリス

 当時のチェコスロバキアは軍備も充実しており、ドイツ軍に対抗できる状態であった。もし、イギリスとフランスが軍事同盟を結び、対独戦もいとわぬと脅しをかければ、チェコ侵攻は防げる可能性があった。にもかかわらず、チェンバレン政権は宥和政策にこだわり続けた。この最大の理由は第一次大戦後の後遺症で再軍備が思うように進んでいなかった事がある。当時、イギリスは5年間で5億ポンドの軍事費増強をする予定であったが、海を渡ってドイツ軍が攻め込んで来ることは想定しておらず、もっぱら空からの爆撃を想定し、空軍力の増強を最優先していた。そのため、自動車工場などを航空機工場に造り替えることなどをしていたが、現実には予算は失業者対策的な意味合いも強く、航空機製造には完全に予算が回って行かない状況だった。更に言えば、陸軍は軍備増強計画の優先順位が低く見積もられ、わりを食う状況であった。陸軍は大陸への派兵を主張していたが、近代戦を戦えるような戦車や火砲などが圧倒的に不足していた。フランスと軍事同盟を組み、ドイツに対抗する事はかなわない状況であったのだ。従ってチェンバレン内閣としては宥和策を取りながら、時間を稼ぐという現実的な選択肢しか考えられなかったのである。1938年9月、チェンバレンはオーストリアの山荘にヒットラーを訪ね、ヒットラーからチェコ侵攻はしないと約束した文章にサインをさせた。会合から帰国したチェンバレンは空港で我々の時代の平和が確保されたとして、その文章を証拠として掲げた。だが、これら一連の宥和策は間もなく破綻する。

 1939年に入ると、ヒットラーは積極攻勢に出た。まず、ハンガリー政府に対してハンガリー人が住むチェコスロバキア領を占領する事を指示。スロバキアの民族主義者にはチェコからの独立をけしかけた(ソ連崩壊後、チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分裂し、現在にいたっている)。3月14日、国家解体の危機に直面したチェコのハーハ大統領はベルリンに急行してヒットラーに面会。事態打開を図るが、逆にヒットラーから脅迫されてドイツの保護領になる事を約束させられてしまう。翌15日午前にはプラハにドイツ軍が侵入し、チェコスロバキアは独立を失ったのである。チェコスロバキアは第一次大戦後、オーストリアの解体によって独立。ナチスが占領するまで高度な産業を持つ民主主義体制を維持していただけに、抵抗もせず占領されざるを得なかった事が戦後も国辱として残った。1996年、分裂後のチェコをエリザベス女王が訪問した時、ミュンヘン会談に触れ、チェコ国民が抱く屈辱感を理解し、共感すると述べて和解を求めている。因みに、当時のチェコは軍事技術にもたけており、中でもチェコ製の機関銃の性能は高く評価されていた。ドイツ軍は侵攻後これらの技術を手に入れなお一層軍備充実を図っている。

 ドイツのチェコ侵攻後、チェンバレンは戦争準備を整えるように号令をかけた。イギリス全土で防空壕が掘られ、戦争に対するイギリス国民の意識が高まった。更にチェンバレンはヒットラーを抑え込もうと、フランスと組んでソ連との軍事同盟を求めてモスクワに使節団を送った。が、その間ドイツはソ連と不可侵条約を結び、チェンバレンの努力をアッサリと無力化してしまったのである。そして1939年9月3日ドイツ軍はソ連の黙認のもとにポーランドに侵攻。ついにこの日、イギリスはドイツに対して宣戦布告する事となったのである。


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