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国士舘大学政経学部政治学科講師


第二次世界大戦後70年を迎えて-忘れ去られたそれぞれの開戦理由-第三話


第一次大戦を共に勝利した伊・仏が第二次大戦で敵同士になるまでの経緯


◎イタリア王国の成立と当時の経済事情

 豊饒な地中海沿岸とヨーロッパのほぼ全部を手に入れた古代ローマ帝国はその後都市国家へと分裂し、それぞれが独自の文化を競い合いながら、ルネッサンス文化を創り出した。しかしながら、分断された国家が多数存在していたイタリアは、ローマ時代ガリア(野蛮地帯)と呼んでいたアルプスの北側に誕生したフランスやドイツ、オーストリアなどの強大な国家には対抗できず、経済的にも軍事的にもヨーロッパ社会から没落。中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリア、スペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた。19世紀初頭、イタリアは他の多くの欧州諸国と同じく、ナポレオンの勢力圏に入り、ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響下に入った。

 その後、オーストリアに対するイタリア独立戦争が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)が当時中心的な存在であったサルデーニャ王国に併合された。また、トスカーナ、エミリア=ロマーニャ、ウンブリアなどの中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国に併合。1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の成立を見る。1866年にはヴェネツィア、1870年にローマなどの教皇領の残りを併合し、イタリア半島の統一は終了するが、南チロルや トリエステ、イストリアなど「未回収のイタリア」と呼ばれた地域は残存し、その後も世論はこれら地域の奪回を諦めなかった。こうしたイタリア建国当時の拡張主義運動を民族統一主義という。後にムッソリーニが登場してファシズムを唱え、対外拡張を訴えるが、この様なイリデンティズムと呼ばれる民族統一主義が民衆の間に根強く存在していたからである。

 イタリアが統一国家として再生したのは1870年、19世紀の後半で、日本が明治維新で近代国家を目指したのとほぼ同時期である。当時のイタリアは国王を中心とする中央集権国家となった。が、もう一つの巨大権力であるローマ法王庁も健在であり、この様な二重権力構造が災いとなって、日本のように権力を一極に集中させることで国家の統一を図り、全国民を経済発展政策に巻き込んでいく状況を創り出す力がなかったのである。

 従って国家統一がなされても国民は貧しく、現実的に貧困から脱出するには移民しか方法がなかった。特にアメリカ新大陸への移民が盛んとなり、ピザやパスタなどイタリア料理で成功する者、マフィアなどの地下活動を通じて闇世界でのし上がる者など新大陸では多数の成功例が見られたが、成功した移民がその富を母国イタリアへは還元せず、経済的には本国の庶民層の貧困は解消されなかったのだ。


◎第一次対戦で勝利しながらイタリア国民の不満が鬱積

 当時イタリアは、ドイツ、オーストリアと同盟を結んでおり、第一次世界大戦に際し、当初三国同盟にもとづいて同盟国側に立った。が、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立し、1914年の開戦に際しては中立を宣言。密かにイギリスに近寄り、未回収地域が返還されるのなら、連合国側につくとの提案をした。これら地域の返還が1915年のロンドン条約(ロンドン密約)によって秘密裏に約束されると、同年、イギリス・フランスらの連合国側について参戦したのである。

 大戦後、1920年のラパッロ条約等によって南チロル地方やトレンティーノ地方、トリエステはイタリア領となった。だが、フィウーメについてはユーゴスラヴィア(現スロベニア、クロアチア)領となり、またチロル地方については、すでにその当時ドイツ系住民が長年にわたり居住してオーストリア・チロル州の一部として定着していたために、逆にオーストリア世論が「固有の領土を不当に奪われた」と反撥してその奪回を求めるようになった。このため、イタリアはオーストリアやユーゴスラビアとの新たな国境紛争を抱える事になったのである。イタリアは第一次世界大戦では戦勝国になったが、望んでいた土地の回収は思うようにできず、国民の不満が鬱積していた。

 第一次大戦の戦勝国でありながら、期待した領土拡大が認められず、傷つけられた勝利に失望した復員兵や、国粋主義者は独断でユーゴスラビアとの係争地占領を敢行。更には戦争で経済が疲弊し、それに追い打ちをかけるように世界恐慌がイタリア経済に深刻な打撃を加えた。北部工業地帯ではロシア革命の影響を受けた労働者による工場占拠など、過激な労働運動の嵐が吹き荒れていた。また、農村部の社会主義化に危機感を抱いた地主、自作農達は暴力で左派運動の粉砕に走り、イタリア国内は暴力が暴力を生む内乱状態になってしまったのだ。これら共産主義者たちに対抗する勢力として登場したのが、ムッソリーニ率いるファシスト党である。ムッソリーニは元々社会主義運動家として頭角を現し、若くして社会党機関紙編集長に就任した。が、第一次世界大戦に参戦する事を主張して党から除名される。その後、彼はファシストとして反共産主義活動家に変身したという経歴を持つ。


◎ムッソリーニの権力掌握過程と外交政策

 第一次大戦から間もない1919年3月23日、ミラノ中心部のサンセボルクロに面した古い建物の中でベニト・ムッソリーニは腐敗した国家を打倒し、古代ローマ帝国に模した新しい強大な国家建設を宣言、「戦闘的ファッショ」を立ち上げた。会場に集まったのは復員兵や国粋主義者ら約120人。発足当時はごく少数だったが、1922年10月には私設部隊・ファシスト行動隊3万人をミラノからローマに行進させるほどにまで膨れ上がった。政府はクーデターを恐れて軍の出動を国王に要請するが、国王は混乱を恐れてこれを拒否。この事が原因で内閣は総辞職する。その後継内閣として国王がムッソリーニに組閣を命じた。

 最初は連立内閣であったが、ムッソリーニは国家至上主義を唱えて3年後に独裁政権へ移行する。ムッソリーニは法と秩序を全面に押し出し、反ファシスト6000人を投獄。国内の安定を図った。これができたのは大衆の圧倒的な支持があったからである。ファシスト政権下では規律ある団体行動が求められ、謹厳実直、質実剛健などの価値観が重要視された。その結果、列車が時間通り走るなど、それまでのイタリア史上空前絶後の事態が起きた。その上、国家主導の下に公共事業を強力に推し進め、農業、工業などの基幹産業の生産性が一気に向上。労働者の余暇事業を充実させ、生活の向上を図った。また、独身者に課税し、結婚を促し、母親に手厚い保護をくわえる事で出生率を向上させる政策を採った。そのためイタリアの若年人口が増え、教育制度が充実。学校教育ではファシストの思想を全面的に取り入れた。これらの事業は新ローマ帝国建設というスローガンで国民に大国としての威信回復を信じ込ませる効果があったと同時に、急速な経済復興にも成功したのである。この様な後発国によくある強権による近代化・開発独裁がイタリア国民の圧倒的な支持を得るところとなった。

 新しいローマ帝国の建設を訴えて国威発揚を狙った強気な発言で国内をまとめ上げたムッソリーニであったが、外交政策では強気一辺倒ではなく、臨機応変な対応を見せた。当時イタリアの海運業は比較的強力だったが、イギリス、フランスに比べたら二流であった。地中海を出るにはイギリスが支配するジブラルタル海峡を通らざるを得ず、どうあがいてもイタリアは地中海に閉じ込められたままであった。リビア、エリトリア、ソマリアが当時のイタリア植民地であったが、1930年代にイタリア本国の人口が急増し、数百万人を移住させる必要があった。その移住先としてエチオピアに目を付けたムッソリーニはエチオピアに進出する前にイギリス、フランスの了解を取り付けようとする。1935年にはフランスの同意が得られたが、利害関係が深いイギリスが問題であった。そこで、ムッソリーニは娘のエッダ・チアーノをイギリスへ派遣、同国における最新の情勢を探らせた。当時ロンドンの人達の多くはエチオピアがどこにあるかを知らないほど無関心であった。エッダはイギリス政府高官のところに日参して、エチオピア侵攻についての意向を確認しようと努力した。そして、ついにイタリアがエチオピアに侵攻しても、イギリスは戦争しないとの確信を得た。そのころ、イギリスは軍備が整っておらず、できるだけ戦争を避ける宥和政策を遂行していたからである。


◎世界的に孤立するヒトラーとムッソリーニが独伊同盟を締結

 1935年10月3日、イタリア軍10個師団がエチオピアに侵攻。戦車や機関銃、爆撃機まで動員して、火縄銃と槍しか持たないエチオピア軍に襲い掛かった。それでもエチオピアは果敢に戦い、イタリア軍は戦闘で化学兵器まで使用して1936年4月、ようやく戦いに勝利したのである。毒ガス兵器の使用は国際的な非難を浴びた。国際連盟はこの問題を採り上げて、イタリアを非難し、イタリア制裁の決議案を通過させた。イタリア国民は国連の決議に反発した。イギリス、フランスは事前に承認を与えていたのに、事後になって制裁するのは不当だ、というファシスト党の論理を熱狂的に支持したのである。

 王女は率先して結婚指輪を提供し、軍に兵器生産を促す行動をとり、イタリア中で軍を支援する奉仕活動が展開された。しかし、この事件で世界から孤立し、外国貿易が振るわなくなってきた。そのため、経済的にも1920年代の経済復興がご破算になっていくのに多くの国民は気付かなかったのである。エチオピア征服から2か月後の1936年6月、ムッソリーニは更なる国威発揚を狙ってスペイン内戦に介入し、フランコ派の支援に5万人を派兵した。この事がきっかけで、同じく、フランコを支援するヒットラーと接近する機会となった。ヒットラーはラインラント奪還をイタリアのエチオピア侵攻になぞらえて口実の一つとした。ムッソリーニとヒットラーは国際的に孤立しており、両者の接近は互いの利益になると思われた。1936年10月、独伊同盟が成立し、これでムッソリーニはドイツの軍事力を利用するつもりだった。

 1938年3月、ドイツのオーストリア併合にイタリアが同意。ムッソリーニはその後のミュンヘン会議に参加してチェンバレンから譲歩を勝ち取ったとイタリア国内で大宣伝して平和の使徒として国民から称賛されたのである。が、ヒットラーに近づく事でドイツ軍の力を利用しようとしたムッソリーニであったが、逆に肝心のイタリア軍が完全にドイツ式になってしまった。行進の時には膝を曲げずに歩くグース・ウォークを採用するほどまでになったのである。更には、ムッソリーニもまた反ユダヤ主義を取り入れるようになる。イタリア国民の間には反ユダヤ感情はなく、地方行政府の長に多くのユダヤ人がおり、1919年から1921年の間に生まれたファシスト戦闘団の多くはユダヤ人であった。この反ユダヤ政策がイタリア国民の中で批判的な感情を呼び起こし、ムッソリーニから離反する気運が出てくるのである。

 一方でムッソリーニはイギリスにも通じる外交政策をとっている。1935年10月、ドイツと同盟を結ぶ前、ムッソリーニはイギリスに秘密提案をしていた。それはイタリアがドイツに反対する立場でヨーロッパに協力する、その見返りとして、イタリアにも北アフリカと中東での利権を保証しろというものであった。1939年1月、宥和政策で難局を乗り切ろうとしていたイギリスのチェンバレン首相はローマに赴き、ムッソリーニと協議し、ヒトラーと引き離そうとしたが、失敗。ムッソリーニの要求があまりにも非現実的であり、イギリスには到底飲めないものであったのが原因の一つだった。が、ムッソリーニはドイツ軍のプラハ占領を目の当たりにして、ドイツの勝利を確信したというのが、本当のところであろう。イタリアはイギリス、フランスなどに宣戦を布告。ドイツ軍のパリ入城後、アルプスの国境地帯でフランス軍を攻撃。イタリア軍はフランス軍よりはるかに有利な状況であったが苦戦を強いられた。イタリア軍はこの時点でも1891年に導入した小銃を使い、火砲は第一次大戦のものしかなかった。3個師団あるとされた装甲師団も書類上のものでしかなかったのだ。このため、イタリア軍は戦えば負けるというのが常態化したのである。


◎ドイツの賠償責任にこだわるフランスの国内事情

 フランスの第二次大戦開戦に至る理由も、イタリアよりもはるかに混乱した挙句の事であった。第一次世界大戦で戦勝国となったフランスだが、その実情は惨憺たるものだった。ヨーロッパでの西部戦線は主としてフランスを戦場として戦われたため、国土は徹底的に破壊され、フランス軍の戦死者は150万人。これはフランス人男性の30歳以下人口の4分の1に相当する。更に言えば戦傷者は400万人、うち140万人が身体障碍者となった。この数字は、フランスのほぼ全家族が戦死者や負傷者を出した事になる。当時出生率が横ばいだったフランスにとって若年男性層の大量損失は様々な面において深刻だったのだ。

 フランスに言わせれば、第一次世界大戦はドイツが始めたものであり、敗戦国ドイツは戦場とならなかった。従ってドイツはフランスの損害全てに賠償するべきであり、戦死者及びその家族に対しても年金を支払うべきである…という事になる。事実フランスはベルサイユ条約の場でドイツに過酷な賠償請求を行った。それがあまりにも苛烈すぎるため、アメリカ、イギリスは新たな戦争の種になるのではないかとの懸念を持ち、フランスに対して反発する態度を見せた。フランスがドイツに突き付けた賠償金の額は1320億金マルク及び、年額20億金マルク及び、輸出額の26%。これは当時の経済学者達の指摘によると、ドイツの支払い能力はこの10分の1がやっととされ、賠償額は全く非現実的であった。にもかかわらず、膨大な戦時借款を抱えていたフランスはドイツから巻き上げるほかはなかったのである。案の上ドイツは早々と支払い不能に陥り、ドイツ国内にはベルサイユ条約の破棄を公約に掲げるナチスが登場し、第二次世界大戦に至る結果となったのだ。

 1920年代に入ると、チェコスロバキア、ポーランドなどの中欧諸国への投資が功を奏し、フランス経済が急速に回復。イギリスをしのぐ経済発展を成し遂げ、当時では世界一流の経済力と軍隊を持つようになった。経済力と軍事力を背景にした政治的影響力も強まった。その典型が、1923年1月のドイツのルール地方への侵入である。ドイツ産業の心臓部と言われるこの地方に、フランスはドイツの賠償金未払いを口実にベルギーを誘って侵入し、軍政を敷いたのである。これに抵抗したドイツ人の労働者に発砲し、13人を射殺した。それに対して国際社会から非難を受けてフランスは孤立する。この急先鋒はイギリス、そしてアメリカであった。特にイギリスは、フランスがヨーロッパ大陸で政治力と経済力を増している事に懸念を抱いていた。イギリスはヨーロッパ大陸で他を圧倒するような強力な国家が誕生するのを阻止する基本戦略をとっていたからである。ベルサイユ条約ではアメリカとフランスが協力してフランス国境をドイツから守るとの条約があったが、強硬なフランスに対する国際的な非難も影響してか、アメリカ議会ではこの条約を批准しなかったのである。


◎莫大なマジノ線建設費用で経済は再沈下し政情不安に陥る

 ドイツに対しては単独で対処せざるを得なくなったフランスは、ドイツ牽制のため、チェコ、ポーランド、ルーマニア、ユーゴと同盟を結び、東側からドイツ包囲網を構築。更にはスイスからベルギーに至る長大な防御陣地・マジノ線を構築した。マジノ線はドイツとの国境線760キロメートルのうち、140キロメートルに亘って建設された。構築のための最初の予算29億フランをつけた時の戦争大臣、アンドレ・マジノの名前にちなんで呼ばれた。最新鋭の技術を使ったこの要塞の構築費は最終的には50億フランに達した。

 4年に亘る第一次大戦で人的資源を失ったフランスは兵力の面でドイツに対抗できる状態ではなかった。従って、対独戦略を専守防衛に徹する事に定め、軍備増強資金をマジノ線建設に費やす事となったのである。フランス政府はマジノ線の効果を宣伝し、絶対不滅の要塞であるとの観念を国民に植えつけた。が、これに巨額の費用を費やしたため、回復した経済も不調に陥った。この影響で政情も安定せず、1920年から1930年の間に25回も内閣が代わるような政治的な空白が生まれ、長期に亘る経済政策が取れなくなっていた。財政政策はもっぱら緊縮政策を優先し、元軍人や軍人遺族の年金を削る事までやらざるを得なくなってしまったのである。これに反抗する共産主義者の運動が激しくなり、それに対抗する右翼勢力も台頭。フランス社会は混乱の度合いを強めて行った。1934年2月、右翼のデモが過激化し、騒乱の様相を呈した時、当局が発砲、死者17人、負傷者2000人という1871年のコンミューン事件以来の大惨事となった。この大混乱は国民の関心を専ら国内に集中させる事となり、この時期を狙ったかのように、1936年の初め、ドイツがラインラント侵入を果たした。ラインラントはベルサイユ、ロカルノ両条約で非武装地帯と定められていたフランスの戦略的要衝であった。が、国民的な関心をほとんど呼ばず、軍も専守防衛戦略に基づいて積極的に動くことはなく、そのまま見逃してしまった。イギリス政府も宥和政策のため消極的であり、フランス政府も国内の不安定な状況からして、ドイツとの戦争は避けたいとの意向が強かったのである。


◎フランス初の人民戦線政府誕生で資本が国外へ流失

 ドイツに対して強硬姿勢を採れなかった事がフランスの国際的信用を失墜させる結果となった。特にフランスと同盟を結んでいた中欧諸国にとって事は重大で、自国の利益さえ守れないフランスがなぜ我々を守る事ができるのかとの疑念が大きくなったのである。フランスは自国の弱さを自覚するようになり、1920年代には必要だった中欧諸国との同盟関係が重荷になってきた。フランスはドイツ封じ込めのため新たな同盟関係を模索。イタリア、ソ連がその候補に挙がったが、イタリアに対しては左翼勢力が反対し、ソ連に対しては右派勢力が反対するという塩梅で、フランス政府は身動きが取れなくなってしまった。それに加えて、イギリスが、1935年6月英独海軍協定を結んでしまった。この協定でドイツの軍艦保有量をイギリスの 35% (42万t) とし、潜水艦は 45%以下とすることを定めた。ナチス・ドイツによる海軍再軍備を阻止できないと考えたイギリスは宥和政策の一つとしてフランス、イタリア両国に相談することなく取決めたものだ。 これによって事実上、ドイツの再軍備を認める事になり、ベルサイユ条約は有名無実のものになりつつあった。

 当然ながらフランスのイギリスへの不信が深まり、英仏関係での亀裂が深刻な状態となった。相次ぐ外交政策の失敗も絡まって国内の政治的対立が深まり、フランスは国家としての結合力を失うほどの大混乱に陥った。こんな中、1936年5月に総選挙を迎え、フランス共産党はスターリンの命令で反ファシズムという名目で社会党と結託して人民戦線を結成。右派に100万票の差をつけ、勝利した。フランスで初の人民戦線政府が発足する事となったが、憲法上の制約で新政府成立まで4週間かかる。200万人の労働者はそれが待ち切れず、賃金のベース・アップ、労働時間の短縮など、選挙公約の実施を迫るデモやストライキを続発させた。これに対抗した右翼勢力との暴力事件が多発したのである。

 この混乱ぶりに嫌気がさした外国資本はもとより、フランスの国内資本も海外に流れ出し、フランの価値が一気に下落した。この様な混乱から国民の目をそらすために、人民戦線政府はスペイン内乱に介入し、スペインの左翼政府を援助しようとした。が、結局スペインは右派の手に落ちた。これでフランスは、ドイツ、イタリア、スペインと国境を接する3カ国のファシスト政権に取り囲まれた事になった。この事態を受けて、人民戦線政府はこれまで再軍備に反対していたのにもかかわらず、1936年9月初めから再軍備を始める事となった。が、今度は再軍備には共産主義の道につながるとした右翼勢力が反対。人民政府を支えるべき労働者階級は左翼政権のお蔭で高賃金を得られるようになっており、その資金を費やす再軍備には消極的であった。それより最も重大な事は政治の混乱と共に労働者重視の政策に対応しきれなくなった資本家が一斉に海外へ逃亡した事である。これで数百億フランがフランスから消えてなくなった。1938年、ドイツに対抗する再軍備を果たすことなく、人民戦線政府が崩壊した。1938年3月11日、ヒットラーがオーストリアに最後通牒を突きつけた時にはフランスに政府は存在していなかったのである。


◎フランスはイギリスと共に宣戦布告

 その後、3度首相を務めた経験のあるベテラン政治家エドワール・ダラディが組閣に当たったが、彼の優柔不断な政治スタイルも影響して状況を変える事は困難だった。ドイツがオーストリアを併合した事でチェコと直接国境を接する事になり、しかも国境線はチェコ領土を挟み込むような形態になっている。フランスはチェコと同盟関係を結んでおり、チェコ軍の訓練や装備援助を続けていた。ドイツがチェコ侵入を図っている中、この危機に対してフランスはチェコを救う事ができるかどうかが大問題となった。これまで述べてきたように戦争ができる国内状態でなかったフランスは、ミュンヘン会議でイギリスと共に宥和政策をとるしか手がなかった。この会議でフランスはチェコを見捨てた。

 会議の1週間後、フランス政府は再軍備に踏み切り、大増税とストライキ禁止措置を取った。1939年3月、ドイツがチェコに侵攻した事で、イギリスとフランスは団結する事となる。イギリスがフランスの同盟国ポ―ランド防衛に保証を与えたからである。

 イギリスはフランスに、戦時には陸軍を派兵する事を伝えたが、派遣可能兵力はたった2個師団でしかなかった。ドイツのチェコ侵攻前、フランス空軍には戦闘機300機、爆撃機はたった6機しか存在してなかった。開戦時には戦爆(戦闘機、爆撃機)合わせて500機、イギリスは1500機、それに対してドイツは3500機であった。明らかな劣勢の中、イギリスとフランスはソ連との同盟を求めて共同代表団をモスクワに送ったが、ヒットラーとスターリンは独ソ不可侵条約を結び、ポーランド分割の秘密協定を結んでいたのである。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、その2日後の9月3日、フランスはイギリスと共にドイツへ宣戦を布告した。

 この様にドイツのポーランド侵攻が第二次世界大戦の開戦の切っ掛けとなった事は良く知られている。しかしポーランドを巡る問題はフランス、ドイツ、それにソ連も深くかかわっている。ヒトラーと似た独裁者であったスターリンの存在が大きな意味で第二次世界大戦を引き起こした元凶の一つとも言える。次回はソ連参戦の理由をスターリンという人物にスポットを当てながら考察してみたい。


 



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